終日、県民相談。 部局をハシゴし、市内を回る中で、かけがえのないもの、について考えさせられた。 100円の価値、の大きさ。少数意見、の重さ。 生活価値の、大小軽重は、決して杓子定規では計れない。 そんな当たり前を、かけがえのないものへの温かな眼差しを、 政治は忘れてないだろうか。世の中は失っていないだろうか。 綴るのもつらいが、昨日、秋葉原でとんでもない事件が起きた。 人間の命は地球よりも重い、はずでなかったか。慙愧に耐えないし、許せないし、悔しい。 被害者、ご家族、関係者の皆様に、心よりご冥福をお祈りすると共に、決意したい。 悲劇を2度と繰り返させない社会になること、を。 これから、事件の原因究明が進んでいく中で、社会的な誘引因子と課題が浮き彫りになっていくだろう。 教育のあり方、労働の価値不全、コミュニティの不在、日常のバーチャル化、人間性の喪失、というふうに。 それらは取りも直さず、日本と日本人の将来にとって、きわめて重要な政治課題である。 冒頭に戻るが。 100円玉1つ、1,000円札1枚で、圧迫感を感じ、また、一喜一憂する生活者がいらっしゃる、ということ。 お会いすれば、それがどういうことか、国会議員にも、官僚にも、肌身で伝わってこよう。 誤差のような小さなこと、ではない。単に、経済的弱者のことでもない。 かけがえのないものへ、温かな眼差し。 何の議論よりも先に、政策決定の前に、政治家は、自身の胸のうちに、その確かさを問わねばならない。 どこまでも、生活者が、起点。 そこから出発し、そこで考えたことを実行し、そこで感じる。その繰り返しを、使命ある限り、自身に課してまいりたい。 ��写真は、昭和46年発行の100円玉。37年間巡り巡って、今は、私のところ。)