県民相談、種々。心が重たくなるときも、ある。 最近読んだ潮2月号の記事もまた、重たいテーマであった。タイトルは、格差社会が生んだ“影”。 ベストセラー「下流社会」の著者でマーケティング・プランナーの、三浦展(みうらあつし)氏による寄稿記事である。 もはや否定できない、事実としての日本の格差社会は、なぜ生まれたか。彼は、アメリカ型のネオリベラリズムを受け入れたことを主因に挙げる。 それによって、新たな階層集団が出現し、その現象を、彼は、下流社会と名づけた。が、所得が低い人々が増えた、という下層社会を指しているのではないらしい。 下流社会と名づけ、彼が提起したものは。 あくせく働いて年収500万円を稼ぐより、300万円でもいいから楽に人生を送りたい。そんな価値観をもつ人、総じて人生への意欲が低い人、が増えてきた現象であった。 そういえば、と気づかされる。 同著が上梓されたのは2005年だが、その少し前、失われた10年の間に、私の回りでもこうした価値観が広がりつつあるな、ということは感じていた。 さすが、若者の価値観研究を続けてきた、元アクロス編集長である。 話しを戻すと、その下流社会、あるいは生じた格差社会について。問題は、労使あるいは正社員・非正社員の分断による日本人としての一体感の弱体にある、と。 たとえば。フリーターを怠け者と思う正社員と、つまらない仕事を正社員はよく我慢してやってるな、と思うフリーター。 本当は、同じ時代の中を互いに苦しんでいるという共感を持つべきなのに、そこに接点がないという現実。その通り、と思う。 そこここに大きな溝を生む格差社会は、換言すると、分断社会といえそうだ。正規雇用と非正規雇用、都会と地方、高齢世代と現役世代、そして、政治と庶民。 不満とか、不信とか、対立という、この溝を、どのように埋めていくか。 そして、その溝は。どのような共感を成立させるかという、他でもない政治課題である、と痛感する。 マーケティングが事実と仮説から出発するならば、生活者が直面する様々な困難の事実から、政治はどのような仮説を立てるか問われていよう。 今日も、自身の宿題の重さと大きさを思うばかりであった。