今のスーパーは、その昔ストアであった。 支払いレジではお互い顔も見えたし、会話があった。お勘定も、バーコード読取りではなく、手動計算であった。飛躍的な便利を得て、大切な何かを失った、気がする。 それは、テレビも同じかも、である。チャンネルを回すと、政治はもはやバラエティと化し、政治家がタレントになり、タレントは批評家になり。 それだけ政治が身近な存在になったことは、いいことだ。いろんな意見があることも、とっても、いいと思う。が、問題はそのあとだ。 見る人の見方によれば、TVはある種の答えだ。バーコードが、情報を記号化するように。 ニュース番組が、だからけしからん、で終われば、見るほうも、それはけしからん、で終わってしまう。 けしからないとしたら、じゃあどうする、ということを自分の頭で考えたいし、ぶつけたいし、それを持ち寄る行動の中にのみ、解決の糸口を見出すことができるのだ、と私は思う。 コメンテーターではなく、キャスターでもなく、われわれ自身の持論を、どう持つか。難しい時代だ、と思う。 今日もひねもす、支持者を訪ね、お一人お一人のお話を伺い、じっくりと耳を傾けた。 一部、教科書ならぬTV通りのご批判もお叱りも受けながら、しかし、実に有意義な、心の通う語らいを持つことができた。 くもり空に、バーコードのような電線。 日々の情報を記号のようにではなく、きちんと読取る力、ちゃんと考える力を磨いてまいりたい、と思う。