懐かしいお二人、遠方より来たる。本間さんご夫婦、である。 10数年ぶりの再会は、昼下がりの15:30、JR松山駅にて。 “おぅ、元気そうやん!(ニコッ)”、と、本間さん。笑うとなくなるくらい目が細くなるのは、昔のまんま。 “めっちゃ、立派になられはってぇ!”と、持ち上げ上手な奥様も、当時のまんま。 “いやぁ、ぜーんぜん、変わってへんですね~!お二人とも、めちゃ若っ!” と、私も、つい、そのまんま、反応してしまった。だって、本当なんですから。 そんなお二人を。 どうぞどうぞ、と私の車に乗せて、早速、市内をプチ観光。そして、私が住んでいるマンションへご案内した。 “こんにちわぁ!”、と、お出迎えする家内と子供たち。ただ、4歳の娘だけ、完全に、よそよそしい。 へぇ、人見知りするんだ、と、わが娘の性格を、今ごろ認識する私も私、ではある。 ひとしきり、昔話に花が咲き。 洗濯ものをたたみながら、天然ボケの会話をする家内は、本間さんには結構ウケたみたいで、 “奥さん、オモロイなぁ~。”なぁ~、の部分に、妙に実感がこもっているのであった。 “いや、オマエ、えー嫁さんもろたわ!” いえいえ、えー嫁さんは、お客様の前では、下着とか、たたみませんから。 それから、場所を移動し、食事をしながらの、第2ラウンド。 思い出のジグソーパズルともいうべき、お互い忘れかけていたピースをつなげながら、 現在のピースを継ぎ足しながら、そして、それぞれの未来のイメージを膨らませていった。 と、美しそうな話だが、終始、ベタな会話ではあった。 あの頃の私は、極貧。食生活は、ほぼ毎日、納豆と花かつお、だったが、 2日と空けず、3軒隣りの本間さん宅に行くたび、いつも温かい手料理をごちそうになった。 食の恩とは、深いのである。 また、本間さんとコンビで、物理的にも精神的にも、プライベートの殆どを費やした、地域の青年部活動では。 そのネットワークが広がれば広がるほど、深まれば深まるほど、複雑多岐にわたり生じる私の悩みを、 いつもそのまま打ち明けることができ、その都度、受け止めてくれたのが、本間さんご夫婦であった。 “エーねん、エーねん、木村。それより、おまえ、知ってるか、ウサギとカメの話?” なんで、ここで、ウサギとカメ?なのか、 そういう煙の巻き方、というか、奇想天外の、心理モードの切替力は、彼の18番であった。 “ウサギは何故、あの競争、負けたか。それは、カメを見ながら走ったからやで。 カメは何故、あの競争、勝ったか。簡単やん、ゴールだけ見すえて、歩き続けたからや。 なぁ、木村。目の前のウサギは関係あらへんねん、無視しとったらえーねん、 オマエはオマエのゴールだけ見とったら、えーねん。大事なんは、そこやで。 今、しんどーても、そこ、忘れんかったら、人生、勝てんねん。” 当時、私は24歳。本間さんは30歳だったか。 実のところ、自分のゴールがどの方向にあるのかさえ、よくわからなかった。 けれど、そんなウサギとカメの話や、勝手に私が名づけているだけだが、 バットの素振り理論や、タイヤの幅理論、また、 ニワトリが先か卵が先か、よりも、使命が先やで理論、 細工は隆々、あとは仕上げをごろうじろう理論、などなど、 枚挙にいとまもないくらいの本間ワールドに、私は、決定的に、インスパイアされたのである。 大阪にいたのは、たった4年弱だったけれど。 その、本間さんご夫婦との4年がなければ、私は今も、ゴールを探していたような気がする。 おかげさまで、本間さんの3軒隣りの大阪で、私は私の、進むべきゴールを確信させて頂いた。 この先、所がどこであれ、仕事が何であれ、環境がどうであれ、こういうふうに生きていこう、 と、決意したその瞬間を、今も忘れない。 その意味で、本間さんご夫婦は、私の恩人、なのである。 約6時間の、束の間の再会ではあったが、そのことを確認するには十分、だったろう。 21:30、JR松山駅にてお見送り。 その時も、笑顔の本間さんの目は、やっぱり細かった。 お二人には、いつまでも、これからも。 宜しくお願いします、と、心から思うのであった。