一昨日の、久万高原町に続いて、夜、今治市を訪れ、党員会に参加させて頂いた。 本日の開催地である、公明党・石井今治市議のお膝元・立花地区は、 高校時代、泉川町に住んでいた私にとって、完璧に、その行動圏内にあたるエリアで。 今もそうだが、郷橋あたりを通過すると、 頭の中にいつも、ゴダイゴの“ビューティフル・ネーム”が、鳴り響くのである。 名前/それは/燃える生命/ひとつの地球に/ひとりずつひとつ なんという、詞の深さ、だろう。 万一にも、地球について思いを巡らせることなどなかった当時、 燃える生命など知る由もなかったが、それでも毎日が燃えるように、無条件で楽しかった。 話が逸れた、ので戻すと。 完全に、まだ日が差す19:00。 平日にも関わらず、多くの党員の皆様が駆けつけてくださった。 私たちを、わが事として支えてくださる方々である。 私たちが、その思いを、責任をもって代弁すべき方々である。 いずこの地の、いずれの党員会にあっても、私は、ただただ、感謝と敬意が込み上げてくるのである。 だから、矢野絢也は許せないのである。 この部分の理論と感情については、公明党茨城県議会・井手議員のHPに尽くされており、完全に同意する。 ��ご参照⇒ http://blog.hitachi-net.jp/archives/50234052.html ) そうしたことも含め、私は、先日の、公明党四国夏季議員研修会の報告からお話をさせて頂いた。 北側幹事長の獅子吼、を何としてもお伝えしたかったし、私たち議員の決意を、皆様にお届けしたかったのである。 熱心にメモをとってくださる皆様の姿にまた、感謝が込み上げる。 そして。 たっぷりすぎるほどのお時間を頂き、自身の1年あまりの議員活動について、ご報告させて頂いた。 生活現場主義を標榜し、ネットワーク政党を自認する、私たち公明党の価値についての、いわば、体験談であった。 はたして皆様には、どのように届いただろうか、と思う前に、 今日お届けしたかった思いはすべてお訴えできたか、と、自身に問う。 できました、拙いですけど。ならばよし、と心の中で自答した。 すっかり日の落ちた夏の夕暮れに、お1人お1人を、最後までお見送りしながら。 今日お集まり頂いた皆様の思いの代弁を、今後とも自身の責任として全うすることを、 あらためてお誓い申し上げるのみ、なのであった。 ��写真は、3日前に行われた議員研修会での、北側幹事長。)
文藝春秋8月号にて。 がん宣告「余命十九カ月」の記録、と題した、戸塚洋二氏と立花隆氏の対談記事、を読んだ。 が、 この時点で、戸塚氏は鬼籍の人となられており、発売直後の記事は、まさに彼の“遺稿”、なのであった。 痛惜を、禁じえなかった。 戸塚氏は、知る人ぞ知る、物理学者であり、ノーベル物理学賞受賞の小柴昌俊博士、の弟子であり。 1998年、師匠である小柴博士の後を継いだ戸塚氏は、奥飛騨「スーパーカミオンデ」で、ニュートリノの質量観測に成功する。 それは。 従来の物理学の前提を覆す、画期的な大発見と賞賛され、以来、ノーベル賞に最も近い物理学者、受賞は時間の問題、といわれてきた。 しかし、皮肉にも、時間の問題となったのは、自身の命の長さのほうだった。 戸塚氏は、記事の冒頭で、語られた。 �� 私のがんは残念ながら立花さんとちがって全身に転移して、 もう最終段階に来ています。でも、研究者という職業柄、 自分の病状を観察せずにはいられない。 今日は私の体験をもとにがん患者の方々に少しでも アドバイスになるお話ができたらと思います。」と。 サイエンスを極めた彼の生き様の、なんという、凄まじさ。 �� 私にとって、早い死といっても、 健常者と比べて十年から二十年の差ではないか。 みなと一緒だ、恐れるほどのことはない。」 葛藤を超克したその境地に、限りない敬意と感動を覚えた。 結果的に遺言となった、いくつかを紹介すると。 �� 患者にとっては、(がんと)なれ合ったって一向にかまわんのですよ。 闘うのではなく、もう少しゆるやかに余命を延ばす方法を研究してほしい。」 �� 医療界にお願いがあります。 がんのデータベースが是非必要だと思うんです。 骨への転移が見つかったとき、私が是非知りたいと思ったのは、 転移はさらに進行していくのか、転移した他の場所も痛くなっていくのか、 骨折の恐れがあるのか、といったことでした。 患者のこうした疑問に答えるデータベースがほしい。」 がん医療界に対する、最高峰の科学者の、最後の言はそのまま、政治に身を置くものとして、深く受けとめる義務と責任がある、のだ。 途中、こんなくだりがあった。 最近まで知らなかったのだが、死を前にした正岡子規が、こんなことを言っていると。 �� 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」 なるほど、平気な顔をして死ぬのもすごいことだが、どんな場合でも平気で生きているのはすごいことだ、と。 人間が生きることの意味を、かみしめずにはいられない。人間の、使命の重さと有難さを、感じずにはいられない。 最後までご自身の命と向き合い、サイエンスを全うされた戸塚氏のご冥福を、今一度、心よりお祈り申し上げたい。
早朝、県民相談が2つ。対応を講じながら、高知市内を移動する。 AM10:00。笹岡県議とともに、高知県庁へ到着。 同県のがん対策の取り組みについての視察、が、この日の目的であるが、 まずは、本会議開催中のご多忙にも関わらず、 ご対応を頂いた健康保健福祉部の皆様に、あらためて感謝を申し上げたい、と思う。 さて、わが党の推進により、2006年に、がん対策基本法が成立し、��ご参照↓ http://www.komei.or.jp/policy/results/health/detail/02.html http://www.komei.or.jp/policy/results/health/detail/12.html http://www.komei.or.jp/policy/results/health/detail/18.html ) それを受ける形で、 都道府県にがん対策推進計画の策定が義務づけられたのだが、高知県も本県同様、昨年度内で、計画が策定されていた。 本県と異なるのは、同時に条例まで作られている点、だ。高知県がん対策推進条例、である。 そして、同条例は、 がん対策推進協議会を、同条例内に位置づけ、協議会中心に、県の計画を推し進めていく、 ということを規定している。 ちなみに。 その協議会の中には、医療従事者を含む関係者以外に、患者・家族・遺族の方々が、きちんと含まれている。 この意味は、大きい。本県も学ぶ必要がありそうだ。 そうした行政の前向きに引き上げられるように、高知県民の、がんに対する意識は、高い。 例えば、昨年12月に行われた、第1回高知県がんフォーラム。 県民の視点に立ったがん対策推進を目的に、がんの予防、治療、緩和ケア等の情報を、 多彩なゲストとプログラムにより、幅広く提供したイベントだが、700名を集め、盛況裏に終了したという。 患者、ご家族、医療関係者以外に、一般参加者が約3割を占めた点も、十分、驚きに値しよう。 さて、県庁でのレクを受けた後、 私たちは、がん相談センターこうち、の視察に移動した。��ご参照⇒ http://www.pref.kochi.jp/~kenkou/cancer/advice.html ) 特定非営利活動法人 高知がん患者会一喜会、の運営による同センターは、 県から委託された、がんに関する民間相談窓口、であり、 がん患者・ご家族の療養上の不安解消を図るとともに、がん診療連携拠点病院、関係団体等と連携し、 がん医療に関する情報を、広く県民に提供することを、その活動目的としている。 同センター長であり、一喜会会長の、安岡氏から話を伺った。 安岡会長は、自分の娘がスキルスがんになって初めて、わが国のがん治療体制が、患者本位でないことを痛感したという。 医師から、娘さんの余命は1年と見立てられた。治療法はないと言われ、医師はそこから先の希望を与えてはくれなかった。 ならば、娘を助けるために、自分が勉強するしかない、動くしかない、と、すがる思いで治療法を探し、専門家を訪ね、全国を駆けに駆けた、そうだ。 そうして、気づけば。 がん難民、といわれ同苦する方々が自分たち以外にも沢山いることを知り、その方々の灯台になろうと、今の活動につながった、という。 安岡会長の娘さんは、その間、お子さんを出産し、9年経っていた今も、元気に活躍されているそうだ。 これは、冤罪で死刑宣告をされたのと、どこが違うのか、との安岡会長の言葉が、今もなお耳から離れない。 医療サイドの改革と、患者サイドの満足度向上は、表裏の関係で、かつ、持ちつ持たれつの関係、と。 そして、それをブリッジさせるのは、議員の仕事、と明確なご指摘を頂き、衝撃的に、認識を改めさせられた。 その他にも、四国内連携の必要性をはじめ、数々のアイデアとサジェッションを頂いたが。 いかに現場に立つことが大事で、当事者の側に立つことが重要か、 あらためて教えて頂いた気がする。 本県のがん対策の前進に、必ずつなげていこう。 高知での視察を終えた、夕方。 夜、党員会が開催される久万高原町に向かいながら、強く、決意した。 ��写真は、悠然とそびえる、高知県議会初代議長・片岡健吉氏、の銅像。)
まだ、6時前。最近、目覚めるのが早くなった気が、する。 ひと通り準備を整え、ホテルを出発。会場への道中、24時間ファミレスにて朝食をとった。 日曜日の7時台だが、客席は、まばらに埋まっていた。若者もいたが、3組の高齢者グループには、頭が謎めく。 と、そんな場合ではない。どんな場合かというと。 このあと開催される、年に1度の、公明党四国夏季議員研修会の中で、 四国各県から1題づつ活動報告があるのだが、愛媛県を代表して、お前やれ、と出番を頂戴したのである。 しかも、目先の変わったのを頼むね、のオマケつき、だ。 頼まれればイヤとはいえない、というより、何事もこれは訓練、と思ってしまう私としては、 合点承知の助、とばかり、この間、密かに推敲を重ねてきたのであった。 が、昨日はお付き合いもあり、リハーサルがまったくできておらず、 やおら、ファミレスで、時計を外して、スピーチを小声でヒソヒソやっては赤を入れ、 制限時間5分の話の流れを頭に入れていた、という場合だったのである。 大体いいだろう、と、お勘定を済ませ、会場へ移動すると、まず、設備を確認した。 あるべきものがなかったりもしたが、そういうこともあろうかと機材を持参して正解だったし、 早めに到着したから、あちこち走り回ることもでき、ホテル側のご協力にも助けられて、スタンバイ完了、である。 と、続々、四国各県からの参加者が会場に詰め掛け、定刻11:00に研修会はスタートした。 四国選出の、石田のりとし衆院議員、山本ひろし参院議員、の姿も見える。 党本部からは、北側幹事長も駆けつけられた。 今日は、この後、大阪、東京と、3つの会合をかけもち、なのだそうだ。なんという過密スケジュール、だろう。 わずか2時間足らずの滞在時間だったが、次期衆院選大勝利への決意と気迫を激烈に語られ、 許される時間のほとんどを、参加議員各位からの質問・要望に充て、丁寧に応えられていた。 その他の詳細は割愛させて頂くが、 年に1度の、そして私にとって2度目の、この夏季研修会は、まさに議員としての成長を刻む“節”であろう。 昨年は、太田代表が来られた。そのときのスピーチが忘れられない。 議員は庶民の手足となって働き抜いていこう、私は、地方議員の皆様の手足となって戦う、と。 あれ以来、念頭から離れることがない、これが“節”と思った。今日の北側幹事長の話もまた、“節”となっていくに違いない。 会合全体を通して、目標も明確、エネルギーも満タン、となった。 さあ、やらんかな。振り向くと、どの顔も、そう書いてあった。 ところで。自身の活動報告の結果を、綴りそびれてしまった。 が、 思った以上の稚拙と未熟に身の縮む思い、であり、綴るのも憚られる、というのが実際のところ。 かろうじて評価を頂けるとしたら、それは、制限時間に忠実、というルール遵守の点においてのみ、だったろう。 それもまた、人生の“節”として刻めるよう、新たな精進を、今日より開始したい、と思う。 ��写真は、私の活動報告風景。)
快晴の午前、市内和気町にて開催された、 松山港海岸(和気・堀江)整備工事完成式、に出席。 低地帯に住宅が密集する同地区周辺は、台風シーズンが来るたびに越波被害を受けており、 かつ、年々、海岸線が後退する傾向にあって、海岸の防護機能が低下していた、のである。 高潮対策が急務であったところ、2000年度に国の直轄事業として認められ、 2002年度の工事着手から8年、このほど完成、引渡しとなったのである。 それにしても、見事な白砂青松。 高潮の防護を目的としながらも、地域の前庭的な渚を目指した、 というだけあって、実に素晴らしい景観、だ。 総工費、約50億円。 その投資に対するリターンは住民の大いなる知恵で、とは、ある来賓のご挨拶。 スピーチ全体は、さすがを思わせたが、そこだけは、違和感を感じてしまった。 今回の海岸整備は、まさに、公共財としての資源配分。 つまり、ビジネスではできない役割を担ったものであり、 防護人口4,000人の生命と財産の保全を、1人あたり125万円かけて整備した、ということであろう。 リターンの話は、この場面ではなく、その125万円が妥当なのかどうか、 直轄事業認定前にすべき議論であって、当然、クリアしていると思うのだが。 ともあれ、 本当に素晴らしい海岸が、できた。晴れ渡る空、流れる雲、寄せる波音、そして、夏。 カップルで、ご家族づれで、ぜひ1人でも多くの皆様にお越し頂ければと思う。 午後は、県民相談。 山本ひろし参議院議員とともに、松前町・砥部町を訪れる。 それぞれの方のご要望を、丁寧に伺いながら、励ましながら、 誠実に対話を続ける山本議員の隣で、その、メモの取り方までも、私は注視し続けた。 ははぁ、 と気づかされることが多々あったが、これは企業秘密、というより、気恥ずかしいだけである。 生きた勉強、を、心から有難い、と思う。 県民相談の内容はいずれも、私にとって後日の宿題となった。勉強が生きるように、取り組んでまいりたい。 終了後は、その足で、高知へ移動となる。明日開催の、公明党四国夏季議員研修会準備のため、だ。 道中。 新人の訓練として、先輩から与えられた明日の大役を、ちゃんと果たせるか、大丈夫か、と早くも緊張してきた。 この緊張もまた、訓練、ということだ。 人生、一生、訓練。ふと、そんな自分向けの、ナイスなコピーが浮かんだ。 ��写真は、松山港海岸整備工事完成式の、くす玉開披の瞬間。)