朝一番で、企業訪問。 訪ねたのは、私が民間企業在籍時に、大変お世話になった某食品メーカーの、所長である。 大変ユニークなキャリアを持つその方は、実は、同い年。松山赴任時の歓迎会で、すっかり、そのお人柄のファンになった。 でもって、とっても心に残る仕事をさせて頂いた。今も続く、毎週のラジオ番組は、欠かさず聴かせてもらっている。 その所長の転勤が決まり、お別れの挨拶に伺ったという次第で。 引継ぎにお忙しい中、お会いできるのは、この時間しかないということで、感謝の気持ちをどうしてもお伝えするべくお邪魔させて頂いたのであった。 転勤先は、本社とのこと。 ますますのご活躍を、とお互いにエールを送りながら、再会を期しつつのお別れとなった。 その足で向かったのは、西予市。県民相談を兼ねて、終日、先輩に同行し、動きに動いた。 その距離、250㎞。大変多くの知己を得、さまざまな人生を学ばせて頂いた。 ここは、米どころ、西予である。どのお顔も、お人柄も、実るほど、である。絵に描いたような謙虚さが、心に沁みてくるようであった。 20軒ほどお訪ねし、帰る頃、ちょうど夕方。沈む夕日の立ち止まる町、を通過した。 車中で先輩方と会話しながら、やはり、若松さんは今日もお忙しいだろうか、と想像しながら。 ちょっと、ここで休憩しましょう。夕日をパチリ、デジカメに収めた。 やはり私には、このほうの才能は、なさそうだ。 ��写真は、その、沈む夕日。)
夜、支持者の座談会に出席させて頂く。久しぶりの、地元である。 以前は、週に何度も、少なくとも、月に何度も、お会いし、お世話になった皆様方である。 月日が変わり、環境が変わったとはいえ、ふと、もう一度あの頃に戻りたい、という感傷がよぎる。 が、それは、それとしながら、新たな気持ちで、座談会に臨ませて頂いた。 実に、感動の、ひととき。触発の、ひととき、であった。 そして。世の中の、因と、縁と、果、を思わずにいられない、のであった。 私が、今、こうして重かつ大なる役割を担い、働かせて頂いているのは、そこに様々な縁が、原因となり結果となってつながる、連鎖であって。 その連鎖をたどっていくと、昭和29年まで遡り、あるいはさらに。この地元に、そのような尊い歴史があったことを、私は初めて知ったのである。 感動せずにいられなかったし、その先輩の志に思いを馳せたときに、自身の使命を、あらためて覚悟させられるような緊張を、覚えるのであった。 人生に無駄はない、すべてに意味があるということと、私の人生において、私は、すべての皆様とつながっていることを、思う。 何だか哲学チックになった。それほど深みのある、会合であった。 私も、皆様に負けないよう、熱い思いを語らせて頂くと共に、この間の議会活動についてのご報告をさせて頂いた。 掛け値なしで、終始。親子のような、兄弟のような、皆様の真心を、感じるのみであった。 私は、ただ、ご期待にお応えするのみである。それは、背伸びをせず、謙虚に、誠実に、着実に、前進する、ということだ。 そういう初心と原点を。座談会のたびに確認させて頂ける身の福運に、ただただ感謝、である。 ��写真は、可憐な水仙。名曲、7つの水仙、が懐かしい。)
午前、そぼふる雨の中、県民相談に走る。 こうした活動は、議員の基本であり、私の場合も、ほぼ日常活動となっている。 内容については個人情報であるため、そんな日は、書物の所感など綴るようにしている。 この間は、そうした毎日であった。 と前置きはそれくらいにして、今朝の話。ポイントは、お調べと折衝の、2点であった。 早速、県庁に戻り、部局を訪ね、種々レクチャを受ける。 お話を伺いながら、あらためて。タテ割りとは、スペシャリストの異名である、と感じ入る。 民間でいうところの、スタッフに近い。とすると、営業というゼネラリストの機能も、ぜひ庁内に欲しいところだ。 ともかく、資料を入手・加工し、今度は、折衝だ。 そんな一連の対応を済ませると、再度、相談者宅に引き返し。ご依頼内容の回答と、経過報告を行なった。 こうして書いてみると、何だか、あわて者のようではある。なるほど、あわて者、上等。 民間企業の営業時代、対応の速さは価値、という、それこそ生涯にわたる価値を、叩き込まれたことを有難く思う。 驚かれたように喜ばれる、相談者のお姿が印象的であった。そして、折衝ごとが上手く運ぶといいですね、とお宅を辞した。 まだ、お昼過ぎ。机に置き去りの書類の山を、なんとかしなくちゃ。 と焦るほどに。 この置き去りは、優先順位の問題か、キャパシティの問題か。迷うのであった。 ��写真は、県庁第一別館の行き先案内、の一部。各部門のスペシャリスト案内ともいえる。)
日経グローカルNo.96(2008.3.17)の、記事。スポットが当てられていたのは、京都府立植物園。 植物園? しかも、公設?私の乏しい知見では、ピンと来ようもない。 だからこそ、情報へのアクセスには、貪欲が必要だ。 公立の施設で有名なのは、北海道の旭川動物園だが、この京都府立植物園も負けてはいない、という記事内容である。 入場者数が低迷していた同植物園を、着任した2006年度、いきなり前年比約140%の70万人台に回復させたのは、松谷茂園長、その人であった。 京都大学では農学研究科に学び、専門は、森林生態学、ということなので、いわばその道のスペシャリストではある。 が、その志と行動力にはビジネスセンスが光る。 まず、着任早々、そのミッションについて次のように自ら振り返られる。 京都府立植物園は、1本の枝、1枚の葉も、府民から預かった大切な財産であり、府民の税金で運営されている以上、府民に還元するのが僕らの仕事なのだ、と。 パブリックに徹した、その志は、まさにプロフェッショナル。 どのように還元するか、というところから、新たな仕事を創り出していったのである。つまり、低迷する入園者をどうしたら増やせるか。 職員は、そのほとんどが技術者である。ゆえに寡黙であり、職人気質である。笛は吹けども、会議は踊らない日々が続いたという。 が、松谷園長は、揺さぶり続ける。 桜の季節に夜間照明を当てた。否定的な反論が、相次いだ。しかし、断行した。 冬場は、お客様の導線に、温室へ足を運ばせる仕掛けを創った。再入園システムや、土曜ミニガイド、さらには。 新たに考案した、月1回の、「園長さんときまぐれ散歩」に至っては、園長の解説そのものを、“商品” にしてしまったのである。 結果、入園者が10年ぶりに年間70万人台に回復したのであるが、目標は、5年以内に100万人と意気盛んなのである。 一見地味な植物園もマネジメント次第、という好例だが、それもこれも、すべては。 核となる人であり、1人に始まるのだな、ということを痛感する。そして、ふと。 人ごとにしてはいけない、と自分に置き換えてみた。
「大変化」、を一読した。著者は、エコノミストの伊藤元重氏。 それにしても、ずいぶん、抽象的なタイトルではある。が、中身は。 国際経済学から見た日本経済と、その発展の可能性について、かなり具体的に踏み込んだ提言がなされていた。 世界最速進行の少子高齢化、巨額の財政赤字、格差社会、医療崩壊、ニート・フリーター問題、教育の荒廃などなど。 数え上げるとキリがないほどのマイナス材料を前に、私たちは。日本経済の未来に対して、なるほど悲観的にならざるを得ない。 が、すべての現象に、「光」と「影」の二面性があるとするならば。 経済現象の、影の部分のみに目を奪われるだけでなく、光の部分はどこか、そこに着目した将来のビジョンが描けないか。 というのが、私が理解した本書の趣旨。そして、氏によると。 日本の未来に大きな活力をもたらすキーワードは、��技術革新」と「グローバル化」、であった。 特に、第8章日本の食糧の未来を考える、には考えさせられた。ずばり、日本農業の可能性についての示唆である。 ここでも、2つのキーワードからの検証を行なうわけだが、それは私が日頃抱いていたイメージに非常に近いものであった。 この場合、技術革新というのは栽培技術とか、研究技術というより、経営技術に近い。あるいは、マーケティング技術というべきか。 平たく言うと。 日本農業の技術革新とは、農業のビジネス化、であり、そのためには、農業を強くするというよりも、農家を強くする政策こそ肝要、ということだ。 また、グローバル化については、文字通り、世界と競合するということである。 それは、一義的には輸入自由化を意味するけれども、だからこそ、技術革新を成し遂げる必要があるし、永遠に保護が通用するものでなく。 山形のサクランボ農家は、その格好の好例であろう。��佐藤錦」は、外国産がいくら入ってきても決して揺るがないのである。 農業が、国の根幹をなす産業であることは論を待たない。だからこそ、停滞と衰退が叫ばれる現状を突破する将来ビジョンが、必要なのだ。 もちろんその他の章では、農業以外にも触れられ、特に、カギを握るのが��DPの約8割を占める非製造、というのは、その通りであろう。 いずれにしても、大変化、である。世界が大きく変わろうとするその中で、日本も、愛媛も、変わろうとしている。 翻弄されてジリ貧となるか、見極めて活力につなげるか、今、大きな岐路に差しかかっていると、著者はいう。 世界の変化に遅れないようスピード感を持って、それを見極める知恵と、行動力を磨いてまいりたい、と思う。