東京から帰ったその足で向かったのは、久万高原町。今日は、月に1度の党員会、の日だ。 3日も東京にいると、やはり四国はクルマ社会だ、と思わずにいられない。 山を越え、山を越え、三坂峠を下りながら、会場に到着。春も間近というのに、さすがに久万は肌寒い。 そんな中を意気軒昂に。今日もたくさんの党員の皆様が、集ってくださった。 市内に比べると少し平均年齢は高いけれど、笑顔なら負けない、まこと、お元気な皆様である。 いつも、本当にありがとうございます。 感謝の思いと共に。何かしらのご満足をお持ち帰り頂けるよう祈る思いで、党員会を始めさせて頂いた。 今日の主要テーマは “後期高齢者医療制度” である。 目の前に、対象となる75歳以上がズラリ、の光景に、思わず後ずさりしそうになりながら、最初に、党本部が作成した学習用ビデオを、皆で視聴した。 当たり前だが、皆様、真剣そのもの、なのであった。 さあ、ビデオが終わって、その空気のまま、質問会。 で、結局、私ゃ、どうなるん?負担は、上がるん?下がるん? ごもっとも、である。 皆様にすれば。この制度が自分にとってどうなのか、が大事なのである。 そして、そんな皆様の前にたたずむ私にとっては。そうした不安をどう取り除くかが、大事なのである。 さらに、汲み取った皆様の思いを国にフィードバックし、改善につなげることが、決定的に重要なのである。 私なりに、たとえ話を交えながら、愛媛に置き換えながら、そして、一杯一杯になりながらも、語らせて頂いた。 特に、制度導入にあたり、公明党が果たした役割は何だったか、という点。 つまり、負担の公平性と2重3重のセーフティネットを盛り込んだ上で、激変緩和のための軽減措置を実現した点については、今日の核心の部分。 心からお訴えをさせて頂いたわけだが、それにしても。 限界集落から、少子化問題から、話がどんどん展開して、質問は、永遠か?と思えるほど、長く感じたのであった。 その後、2月議会を振り返っての県政報告を、自作の編集ビデオを交えながら行い、今月の党員会は終了となった。 さて、今日の何かしらは、皆様お持ち帰り頂けただろうか、と、いつもながらの不安と恐縮を感じながら。 お集まり頂いた皆様のために、よし、週末の遊説をがんばろう、と気持ちを切り替えながら。 21:00も過ぎるとハッキリと寒い、久万高原町を後にした。 ��写真は公明党ウェブTVより、右:高木陽介党広報室長)��ご参照URL⇒ http://www.komei.or.jp/ )
昨日に引き続き、東京にて。 午前、石田のりとし衆議院議員と山本ひろし参議院議員を、衆参それぞれの議員会館に訪ね、種々懇談させて頂く。 昨日のシンポジウムでもご一緒させて頂いた山本ひろし参院議員には、いよいよ4月から導入される、後期高齢者医療制度に対する現場の声、特に、行政実務の面での疑問を、いくつか託させて頂いた。 その他の問題も含め、こうした地方の声、生活者の思いを、国政につなげるネットワーク政党の意義を、有難くかみしめながら。 そして、昼食もそぞろに向かったのが、本日の私の、メインテーマ。��学校支援地域本部のつくり方」フォーラム、である。 というよりも、生の、藤原和博氏を感じたかったのである。予想通りというか、予想以上というか、そのアグレッシブに圧倒された。 教育にかける、情熱と確信の塊り、であった。 本ブログで何度となくご紹介したばかりでなく、今回2月議会の代表質問で、私が引き合いに出させて頂いた藤原氏は、知る人ぞ知る、東京都杉並区立和田中学校の校長先生、である。 第一部は、その藤原和博校長の基調講演で始まった。 いかにも、リクルートご出身らしいプレゼンであった。でもって、私がいた、広告代理店と同じ匂いがするから懐かしい。 のっけから、全員参加の“和田中度テスト”。 10問の内、7問以上正解ならかなりな和田中オタク、とし、会場を笑わせながら、参加者の心をひと掴み。 ちなみに、私は7問正解だったが、まわりは9問・10問の方ばかりだった。あらら、関係者対象のクローズド会合だったか、と心配したが杞憂ではあった。 さて。 和田中で藤原校長が、学校支援本部を立上げ、人・モノ・金・愛情といった、地域のリソースを学校に組み込み、 [よのなか]科を始めとする様々な“授業”の改革を進め、そして目指したものは何だったか。 それは、生徒たちにとって世界で一番通いたい学校にすること、そして、生徒たち1人1人に情報編集力を身につけさせること、と彼は言う。 情報編集力とは、平たくいうと、つなげる力。 たとえば、[よのなか]科では。 “赤ちゃんポストは是か非か”、とか、“自殺は是か非か”を、生徒自身で考え、大人と一緒に考え、討論をするのである。 その反復訓練は、世の中のことを、よそごとでなく、他人ごとでなく、自分ごととして感じ、考え、行動し、解決していく力を確実に養うであろう。 なるほど。 和田中が、最もといってよいほど全国から注目される学校になったのは、入学希望者が大幅に増加したことや、成績が飛躍的に向上したことよりも。 生徒1人1人の中に、そうした、つなげる力、をしっかりと養い育てたこと、そして、生徒を中心に、学校と地域をいきいきとつないだこと、に尽きるであろう。 その結果、生徒・学校・地域の3者満足を実現した、藤原校長のいわれる、つなげる力。 それが、今までの教育に決定的に欠けていた視点であり、個人にとっても国にとっても、これからの世界を生きる上で、最も必要な条件である、との氏の論に、同意、である。 基調講演に続く、第二部のパネルディスカッションも、教育行政に携わる方々の熱心な主張が展開され、興味深かった。 さて。 その和田中をモデルとした“学校支援地域本部事業”が、4月から全国で推進されることになる。 文科省の予算は、実に、50億4,000万円。これをムダにしてはならないし、きちんと成果を出さねばならない。 文教警察委員会に所属が決まった私にとって、そうした思いから、イチ早くの視察であった。 藤原校長の、教育にかける情熱を、自らの五感でしっかりと、受け止めさせて頂いた。 あとは、こちらのつなげる力、である。愛媛の教育行政の発展に全力あるのみ、なのである。
午前、県民相談対応の後、東京へ移動。 急ぎ足でめざしたのは、��ユニバーサル社会の実現をめざすシンポジウム」、という会合である。 ちなみに、ユニバーサル社会というのは、年齢や性別、障害の有無などにかかわりなく、誰もが個性と能力を発揮し支えあう、共生・共助社会のことであり、同シンポジウムは。 本ブログでも何度かご紹介させて頂いた、社会福祉法人プロップ・ステーション理事長である“ナミねぇ”こと、竹中ナミ氏の呼びかけに、全国から賛同者が集って開催されたもの。 主催は、社会福祉法人プロップ・ステーションと、読売新聞東京本社。 そして後援は、米国防総省、在日米国大使館、内閣府、厚労省、防衛省、国交省、文科省、社団法人日本経済団体連合会、日本放送協会、とまさに、国家プロジェクト級である。 従って出席者も、錚々たる顔ぶれ、なのであって。プログラムに沿ってご紹介すると。 主催者・竹中理事長の挨拶の後、いきなり、福田総理、である。ただ、現下の国会運営でもあり、ビデオメッセージでの参加ではあった。 続いて、挨拶に登壇されたのは、シーファー駐日米国大使。 アメリカには、1990年に制定された 「障害を持つアメリカ人法(ADA法)」という、障害を持つ人々に対する差別を禁止した、偉大な法律がある。 シーファー大使は、その導入・修正に関与されたご自身の体験を通して、ユニバーサル社会の必要性と実現性について、熱く語られた。実に説得力のある、確信あふれるスピーチだった。 次に、わが公明党の太田代表。 誰もが能力を発揮できる元気な日本を創ろう、と訴え、��ユニバーサル社会基本法(仮)」の早期実現に対する力強い決意を表明された。 そして、民主党の鳩山幹事長。 ユニバーサル社会は、氏の政治理念である“友愛”に通じるとして、��ユニバーサル社会基本法(仮)」の実現に、必ず協力する旨のお話であった。しっかりと、記憶に留めたい。 続いて、米国防総省CAP理事長のダイナー・コーエン氏の基調講演。 彼女は、障害を持つ人々に対する政策支援開拓の、国際的権威である。また、彼女が理事長を務めるCAPの使命は、というと。 障害を持つ人々に対して、そのハンデをICTによってサポートし、彼ら彼女らが、健常者と同じ土俵で競争できるよう、機会を開発し調整すること、といえそうだ。 たとえば、両目を失くし、生きる希望さえ失った負傷兵が、その退役後。 視覚を代替する科学技術によって、MBAさえ取得し、さらには米陸軍士官学校の教鞭をとるまでになり、といったエピソードを語られ、そうしたサポートを、今までに61,448件行ってきたとの報告がなされた。 目が、足が、身体や体の機能が損傷する可能性が、誰にもあること。と同じように、障害を持つ人々の誰にも働くチャンスを提供すること。 働くということは、自らの存在証明であり、そうした誇りを持って、すべての人が、障害の有無に関わらず生きられる世界に変えていこう、と結ばれた。 変えていくのは、YOU! and YOU! and YOU!と会場を指差しながら。最後のYOU!で、視線が合ってしまった。責任を感じた。 続いての第二部は、パネルディスカッション。竹中理事長の進行で、パネラーは。 基調講演のダイナー・コーエン氏、防衛大臣の石破茂衆議院議員、公明党代表代行・与党ユニバーサル社会PJTリーダーの浜四津敏子参議院議員、弁護士の大平光代氏、日本経団連専務理事の紀陸孝氏、であった。 石破防衛大臣が、なんでユニバーサル社会?会場内のそうした空気を察してか、大臣からエピソードを交えた自己紹介があった。 実は、バリアフリー法制定を推進したのは、当時、運輸委員長であったご自身であったということで、本分野への造詣の深さに納得。 その際、日本のバリア度を実感するために、ご自身自ら車イスで、羽田空港から品川プリンスホテルまで移動したという徹底ぶりに、なんとも、驚いた。 石破大臣は、世に言う軍事オタクを超えた、人間オタクだな、と思わず感動し、脱帽となる。 わが浜四津代行からは、障害者が社会に合わせる世の中から、社会が障害者に合わせ皆が共に生きていく社会に、とし、そのためのユニバーサル社会基本法を何としても実現してまいりたい、との決意が表明された。 その通り、と、こちらまで力が入る。 かようにすべてを綴ることはできないが、実に示唆に富む、刺激的なパネルディスカッションであり、また、あっという間の2時間であった。 最後に、「ユニバーサル社会基本法の制定に向けて~元気な日本を創ろう~」が、会場参加者の満場一致を得て、採択されシンポジウムは終了した。 微力であっても全力で。愛媛をユニバーサル社会にしていくために、必ず、お役に立ってまいりたい。 遠路足を運び、目と耳と心を使って感じた、今の私の気持ちである。 ��写真:左から、竹中理事長・コーエン氏・石破大臣・浜四津代行・大平氏とご息女悠ちゃん・紀陸氏)
午後、東温市の坊ちゃん劇場に招かれ、封切りとなったミュージカル「龍馬!」を鑑賞させて頂いた。��ご参照URL⇒ http://www.bochan.jp/ ) 感想は、ブラボー、のひとこと。 外国なら、スタンディングオベーション間違いなし、だ。招かれたから言っているのではないのであって、本心なのである。 そして、本ミュージカルの主人公は、タイトル通り、坂本龍馬なのである。 言わずもがなの、四国が生んだスーパーヒーローだが、脚本・演出をご担当されたジェームス三木先生によると、 歴史上の人物で国民にもっとも人気が高いのは、江戸時代までが源義経、明治時代以降が坂本龍馬、だそうだ。 ということは、約140年。 それほどの長きにわたり、日本人の心を、磁石のように捉えて離さない龍馬の魅力は、いったいどこにあるのか。 それこそが、本ミュージカルの主題であったろう。 ジェームス三木先生が今回描いたのは、薩長同盟から大政奉還、そして近江屋襲撃にて凶刃に斃れるまでの、約2年間。 まさに、龍馬の生きざまを永遠に輝かせた、その33年の人生のクライマックスの時間、であった。 それが、先生の手にかかると、見せられる、魅せられる。 歌あり、タップダンスあり。フラメンコあり、お客さんとの会話あり。 涙と、笑いと、シリアスの波状攻撃で、気づけば、あっという間の1時間40分であった。 龍馬という人物の志を、現代風に翻訳し演出されたジェームス三木先生の手腕は、お見事!という他ない。 まさに、ブラボー、なのである。そしてあらためて、今の時代。 遥かな志ゆえに、決して夢と希望を決して失わなかった龍馬の、あの自由奔放さと明るさに、私自身、大いに励まされる思いがした。 そして、龍馬独唱のシーンでは。 ��♪目を開け 民の暮らしに / 目を開け 民の苦しみに / ・・・助け合えば 日本はひとつ ♪目を開け 海のかなたに / 目を開け 国の行く末に / ・・・分かち合えば 世界はひとつ・・・ 」 というフレーズが、思わず耳に刺さった。 人間と、世界と、未来に目を向けたとき、日本も世界もない、私たちは1つである。 そんなメッセージに、一人の議員として、心を打たれずにはいられなかった。 そして、侍であり、剣術家であり、船乗りであり、実業家であり。 なおかつ、恐妻家ならぬ恐姉家でもあったが、やはり龍馬は。空前絶後の、偉大な政治家であった、と思わずにいられなかった。 そして鑑賞後、心が思いっきり洗濯され、突き抜けたような爽快な気持ちになった。 この感動をぜひ、とばかり、1人でも多くの方にお運び頂きたい、と思う。 ��写真:左から龍馬役の上野哲也さん、私、おりょう役の若松ゆえさん。)
終日、党務。ということで、書き出しに苦労する。 その中で、伺ったこんな話。 戦後間もない、昭和23年。まだ、アメリカ軍が日本に駐留していた頃、である。 松山に、シャールズ中佐という方が着任されたという。そして、中佐がまず目にしたものは、汚い“お堀”の姿だった。 そこには、ボウフラが湧いていた。悪臭を放っていただろう、さぞ見苦しかったことだろう。 当たり前である。焼け野原の中で、生きるのに精一杯の時代なのである。 中佐は、すかさず指示したという。“お堀を、埋め立てろ!”と。 しばらくして、当時の地元議会は、これを満場一致で決議したという。 ほとんど占領下の日本である。仕方がないではないか、という気持ちであったろう。 ところが、それに猛反対したのは、他ならぬ地域住民であった。 “何をいうか!お城とお堀は一体ではないか! 断じて、認めるわけにはいかない!”と。 いつの世にも、リーダーは存在するものである。住民の声を聞いた、岡江さんという弁護士が、悠然と立ち上がった。 その気骨は、筋金入りだった。 かつて昭和19年、時の最高権力者である東条英機に対して、2回も弾劾書を提出した、命さえ顧みない闘士の人、だったのである。 岡江弁護士は、地元紙に糾弾の投書を掲載しながら、その足でシャールズ中佐を訊ね、堂々と反対を訴えたという。 中佐は、“それは、あなたがたの民意ではないか!”と、議会の議決をもって、岡江弁護士に切り返した。 岡江弁護士は、してやったりであったろう。“では、あなたは民意に従う、という理解で宜しいですね!” その後、再び議会が開かれ、お堀埋め立ての件について、先の議決が取り下げられることとなったのである。 勝ったのは、住民であった。 さて、この史実は、何を物語っているだろう。それは、勇気こそが社会を変える、ではなかったか。 郷土の先輩である岡江弁護士の戦いに、学ぶならば。それは。 わが身を投げ打ってでも、民意を声に出して戦う勇気を持て、であろう。 しっかりと心に刻み、自身の使命を果たしてまいりたいと思う。 ��写真は、上品な芳香ただよう白木蓮)