午後、市内で開催された、地方自治法施行60周年記念講演会を聴講した。 講師は、現在、総務省自治大学校長であられる椎川 忍先生。演題は、「今後の地方財政運営の展望と自治体の人材育成のあり方」。 加戸知事を始め、県下の首長・議員・各自治体職員総勢320名の参加とあって、会場を満杯に集め、講演会は定刻通りにスタートした。 内容についての私の所感は、青野議員( http://ameblo.jp/masaru-aono/entry-10072682899.html )や、石川議員( http://minoru14kawa.blog72.fc2.com/blog-entry-345.html )や、福羅議員( http://fukura51.exblog.jp/8253572/ )と、まさに同じであった。 ので、割愛させて頂いて。 その後、議事堂に戻り、理事者から医療制度改革に伴う県の諸計画の策定・改定、愛媛県がん対策推進計画案などの概要説明を受けた。 いずれも平成24年までを1つのゴールと定めているが、実は、そのゴールの年は、世にいう2012年問題の年、なのだ。 1つには、いわゆる団塊の世代の方々への、年金支給が始まる年。 もう1つは、2年前に導入された、改正高年齢者雇用安定法により定年延長となった同世代の方々が、真のリタイヤを始める年、なのである。 何しろ、団塊の世代は680万人もの数であり、これは、ほぼ、香港の人口に匹敵するのである。 この年、わが国の年金・医療・福祉・介護などの社会保障給付費は、一気に110兆円までに膨らむ、といわれている。 その年の瞬間風速だけで終わらない、持続的超高齢社会の始まりなのだ。 もし今そうなった場合、来年度の一般会計予算は、約83兆円という現状ではおそらく予算さえ組めないのではないか、と考えるほどに。 残された5年弱の間に、医療制度を含めた様々な改革は、まさに待ったなし、であろう。 保健福祉部のレクチャを受けながら、そういえば、先ほどの講演。 そうした2012年問題などもしっかり踏まえた、��今後の国の財政運営の展望と国の人材育成のあり方」を、ぜひ伺いたかったな、と、ふと思った。 すっかり外は、黄昏。明日のセミナー参加に向けて、空港へ移動し、名古屋行き最終便にて機上の人となった。 ��写真は、総務省自治大学校長・椎川 忍先生の講演風景。)
午前、党務。午後、議事堂にて公務。 今日も、県民相談をいくつか承ったのであるが、その中で、薬害肝炎に関するお問い合わせがあった。 あの、薬害C型肝炎訴訟問題、についてである。 ご承知の通り、先月11日、薬害肝炎被害者救済特別措置法が成立し、この問題については、いわゆる一律救済という政治決断が、実現した。 そして、現在、原告団による各地の訴訟も、和解の方向へと終結に向かっているのである。 が、である。 今回の救済対象となる、フィブリノゲンと第九因子製剤による感染者は、全国で推計約12,000名だが、それは、あくまで対象であって、給付金支給という救済がなされるには、裁判認定が必要になるのだ。 国家賠償請求訴訟をおこし、カルテや当時のお医者さん・看護師などの証言など因果証明が必要、となると、これはもう、とてつもなくハードルが高いのである。 その多くが数十年前の話であれば、カルテが存在しない、病院が廃院している、救急車の搬送記録がない、などなど。 要は、立証したくてもできなければ、結局、救済されないではないか、ということである。 一説では、対象者12,000名のうち、救済されるのは1,000名程度といわれる、こうした方々を、どのように真に救済していくのか、という課題が、厳然と残っているのだ。 また、今後の課題として。 ��型・C型肝炎患者と感染者が、全国で350万人いると推定されている中で、こうした方々をどのように救済していくのか、という次なる課題につながってくるし。 さらには。 サリドマイド・スモン・エイズ・ヤコブ病など、繰り返される薬害の根絶という、抜本的な課題にゆきついてこよう。 つまり、今日頂いたお問い合わせは、国の医薬品行政をどうするのか、という問題である。ここで、幕引きに終わらせては、絶対にならないのである、というふうに私は解釈した。 すかさず、国会議員へお声を届けるのだが、やはりそうしたご心情の訴えは枚挙に暇がない、そうだ。 そうしたお声を受けて、公明党は来年度の予算政府案でも、インターフェロン治療費の公費助成などの肝炎対策として、昨年度より132億円多い207億円を確保し、 予防から治療、新薬の研究・開発などといった肝炎の総合対策を盛り込んだ、肝炎対策基本法案を、現在、衆院に提出しているところである。 最終的な、薬害根絶に向けた取り組みを、私たちのコア・コンピタンスであるネットワークを駆使しながら、当事者の思いに立って全力で、取組んでまいりたいと思う。 ��写真は、厚労省政府広報。お問合せは0120-509-002/9:30~20:00、土日祝除く2月29日(金)まで。)
3連休明け。朝の通勤ラッシュアワー、の56号線。 世の中が、今週も動き出したな、そんなことを感じながら、私は、車検のため、ディーラーへ向かっていた。 高松時代から7年間、毎日、お世話になっているマイカーを、まだまだ働いてもらうけん、いってらっしゃい、と心で言って送り出した。 そのあと代車を借りて、近くの支持者宅をご訪問し、近況をお伺いした。息子さんが今春、晴れてご就職が決まったとのこと。 うわぁ~、よかったですねー、とひとしきり喜び合いながら、それでもね、と、お母さん。初めて親元を離れて暮らす息子さんのことが、とっても気になるご様子なのであった。 母の愛は深いな、と微笑ましく感じながら、大丈夫、心配いりませんよ、と、自身のことを振り返り、ダブらせながら、渾身のお励ましをさせて頂いた。 私も在籍したクリエイティブな世界に羽ばたく、息子さんのご活躍を、心から祈りたい。 さて、その後、企業をいくつか訪問して、議事堂に向かう。来る2月議会の代表質問の会派打ち合わせであった。 先日までに私がまとめた目一杯たくさんの項目骨子の中から、方向性を決め、優先順位をつけながら、大幅に絞り込んでいったのであった。 さあ、ここからは一気に原稿を書き上げるのみ、と、少し安堵した矢先。廊下で、いつも元気いっぱいの、社民・護憲連合の石川議員とすれ違う。 石川議員もまた、今回、会派代表質問をされると伺っていたので、つい、調子はいかがですか、とお声をかけたのだが、意に反して、できたよ、と。 早やっ。 おかげさまで、それまでの安堵が一気に吹き飛んだのであって。 私は思わず、さすが石川さん、段取りがいいですねー、と、お世辞抜きで言ったのだが。 大丈夫ですよ、木村さんなら、と石川さん。明らかに、お世辞が入っていた。 今週、このあと目一杯のスケジュールなのに、と私は、すっかり不安に陥ってしまったのであった。 どげんかせんといかん。 その後、理事者打合せ、党務、支援団体打合せ、目一杯の1日。深夜、帰宅後、ねじり鉢巻で書きまくるぞ、と思うほどに、焦りまくり。 午前3時。 5割がた仕上げて、あとは、寝るのも戦い、と就寝することにした。もう少ししたら、朝からフル回転、なのである。 ��撮るものがなく、お気に入りのペン立てと、耳かき1つ。)
1週間ぶりの、西予市・県歴史文化博物館。 小高い丘に威容を誇る、その1室で開催された、党議員総会出席のためであった。 今後の活動について、団結の打ち合わせをみっちりと3時間。ハードな内容に、思わず心が引き締まる。 また、国会開会中にも関わらず、山本ひろし参議院議員も駆けつけられ、最近の国政動向について、舞台裏も含め、多岐にわたる報告があった。 ブログに綴るには何かと制約もあり、今日の所感を1つだけ述べるなら。 公明党の、他にはない独自の強みは何か、ということである。 精神論は、ここでは触れず、現実論として。その強みは、ネットワーク、だ。 国と地方を合わせて3,095名の議員が、本当にフラットで、かつ、しっかりと、つながっているのである。 それは、地方でお受けした切実な要望が、たった1ヵ月で、国を動かす力になりうるのである。 かつて。 神奈川県のある産科院長からの子宮頸がん対策に関する提案を、公明党地元市議がお受けした。市議は、頑なであった市を粘り強く説得し、実現し、その院長から大きな信頼を頂くこととなった。 そして今回。 ある大学准教授から提案された子宮頸がんの予防に効果的なワクチンの早期承認について、院長は市議に相談。それは、市議から松あきら参院議員、浜四津敏子代表代行につながれ、参院予算委員会につなげられたのである。 この間、わずか1カ月足らず。 その参院予算委員会の質問で、浜四津代表代行は、舛添要一厚労相から。 がん検診全体への啓発・啓蒙活動の約束と、新薬の承認期間を約4年程度から、1.5年以内に短縮し、予防ワクチンの承認に全力を挙げる、との答弁を引き出したのである。 医師は、その対応の的確さとスピードに驚き、感動した。そのエピソードを聞いた私たちもまた、感動した。 思えば、私たち四国の公明党地方議員も、山本ひろし参院議員との連携で、障害者の働く場への発注促進税制を、来年度予算において実現させて頂いたのである。 この、ネットワーク政党の強みを、1人でも多くの県民の皆様にお役立てさせて頂くために。 私もまた、本日より生活者のもとへ、生活現場へと、飛び込んでまいりたい。そんな決意に奮い立つ、本日の議員総会であった。 ��写真は、国政報告を行なう、山本ひろし参院議員。)
懐かしい大学時代の親友から、電話あり。転勤が決まった、という。 6回め?7回め?もうこれで何回目だろう。転勤族とはいえ、ご家族にとってはさぞ大変であるに違いない。 そんな切り出しから、ずいぶん、長話となったのである。 大学時代、私たちは軽音楽部に所属し、彼が部長、私が副部長というコンビで、私からいうと、おそらく、もっとも多くの時間を共有したのが彼、なのであった。 おそらくついでに言うと、巧妙な隠しごとは、お互いバレバレ、なのである。 そんな彼は、熊本出身の、文字通り、あるいは絵に描いたような、肥後もっこす。 浪人しているから、実際は私より1つ年上。入学当初は、その微妙な距離感がつかめず困ったことを憶えている。 1番の思い出も、2番目の思い出も、はっきりとあるのだが、とても公開できるようなレベルではないので、ひっそりとしまっておくが。 3番目の思い出は、夏休みに、伯方島の私の家に遊びに来たときのことである。彼は、私の母親となぜか会話が弾み、そして、私に、言うのであった。 女の細腕で大学に通わせてくれる母親を大事にせなアカンぞ、と。 彼は、大体からしてこの手の教えを説きがちなキャラではあったのだが、このときだけは、妙に、せやなぁ、と腑に落ちたのであった。 当時、ご両親が健在だった彼からすれば、私のところのような母子家庭、というのは、それはそれで、考えさせられるところがあったのだろう。 ちなみに私の母は、その当時のことがずっと印象にあって、��さんは素晴らしい、というイメージが完璧にインプットされているのである。 大学を卒業してからも、東京で、大阪で、兵庫で。機会があるたびに、彼とは旧交を温めてきた。 それぞれ、いろんなことがあったなー、お互いどん底も多かったなー、と思う。 一番、最近会ったのは、昨年、私が出馬した統一地方選のときである。彼は、忙しい中、わざわざ福岡から、選挙事務所まで駆けつけてくれたのであった。 つかの間の会話の後。遊説カーに乗り込み、マイクを握り、手を振る私を見送りながら、それ以来ご無沙汰している。 後日、先輩議員が教えてくれた。遊説カーの私を見送りながら、彼は、男泣きに泣いていた、と。 そして、先輩議員は、こう続けられた。木村さんは、いい友人を持ちましたね、と。 その話に、私もまた、涙したのである。思い出しても、有難い、のである。 長電話のはざ間で、ふと、そんなことを思い出しながら。 世知辛い世の中にあって、本当は、こうした、有難さ、がいっぱいあることを。誰もが信じられる社会に変えていくのは政治の仕事なのだ、と思わず、力が入った。 とはいえ、当時と変わらぬ私たちの、軽口でタメ口調の長電話にあっては。 この辺のビミョーな心のひだは、そばにいた家内でさえ、微塵も気づけなかったであろう。 ともあれ、お互いにエール、な1日であった。 ��写真は、大学3年時の、左が私、右が彼。)