正午、市内のホテルにて、公明党愛媛県本部2008政経文化パーティが開催された。 地元から加戸知事をはじめ、国会議員、各地方議会議員及び首長ほか多数のご来臨を賜り、わが党本部からは、神崎武法常任顧問が石田衆院議員・山本参院議員とともに出席した。 立すいの余地もないほどの盛況に、ご参集各位への感謝の気持ちが込み上げてきた。 思えば、1年前。本パーティに、私は、統一地方選の予定候補として出席した。 連日のハードスケジュールに体がついていけず、高熱フラフラ状態で参加したことを思い出す。健康の自己管理が厳しく求められる政治家の過酷さを、まだ知らなかった。 が、朦朧としながらも、太田代表の入魂空前のスピーチだけは、今も鮮烈だ。ハッキリと、あの瞬間が、議員としての自身の原点なのである。��ご参照URL⇒ http://homare.i-yoblog.com/e19503.html ) 政治家は、何を言ったか、ではなく、何をやったか、が問われなければならない。政治家の生命線は、パフォーマンスにあるのではなく、成し遂げた事実と成果にのみあるのだ、と。 結果を出してこそ政治家、との圧巻のスピーチに、新たな使命に対する挑戦を、心に誓った。あれから、1年が経過したことになる。 私は、何を成し遂げたであろう、と考えると、なんとも覚束ないが、県民の皆様から頂く1つ1つの課題に、ともかく無我夢中で体当たりの1年であった。 あっという間のようで、実は、長い長い1年だったような気がする。 さて。 席上、神崎常任顧問から、ねじれ国会における公明党の実績を1つづつ紹介しながら、公明党が与野党合意形成のかなめ役となって、生活者直結の政治を必ず実現していく、との力強いスピーチがあった。 ここで、考えよ、である。 その、生活者直結、をどのようにカタチにしていくか。これは党としての問題であるとともに、極めて議員個々の問題でもあるのだ。 県民の皆様お1人お1人と直結するとは、どういうことなのか。何をどれだけ、皆様と地域社会に対する成果としてもたらすことができるのか。 その日々の具体化が、議員の仕事であることを忘れまい、と思った。 ほぼ終日にわたりパーティの準備・運営に当たりながら、生活者直結、の電話は後を立たない。たった電話1本だが、信じて託す思いの、勇気の1本、もある。 1年前も、今日も、そしてこれからも。 ある時は、生活者の辛みと苦しみを、胸をえぐられるように、またある時は、その前進と解決を、飛び上がらんばかりに。 常にわが事として敏感に感じられる自身に成長を、と思う。 ��写真は、万歳のご発声を頂く横田弘之愛媛県議会議長。)
午前、来年度予算要望の会派打合せ。午後、松前町の企業訪問を行なう。 そして夕方。山本ひろし参議院議員・雲峰松山市議に同行頂き、市内在住の広瀬さん宅をご訪問した。 先日、雲峰市議とともにご相談を伺ったのだが、その中身は、障害者スポーツの振興に関するご要望であった。 その本質を突いたお話に、私たちはひどく心を痛めながら、その抜本解決には国の力が必要だ、と即、山本ひろし参議院議員にお伝えし、機会があればぜひ同行訪問を、と要請していたところであった。 それから、たった6日。 国会開会中の間隙を縫って、1人の庶民のために駆けつける国会議員が、はたして何人いるだろう。山本さんは、さすがだな、といつも思う。 さて、その広瀬さん。悠(はるか)君という、目に障がいを持つ息子さんが、実は、日本を代表するアスリートなのである。 昨年は、全日本視覚障害者柔道大会男子100キロ級で見事優勝し、第3回IBSA世界選手権大会ブラジル2007男子100キロ級では5位入賞。 そして。 本年9月開催の北京パラリンピック日本代表に内定した、彼の栄誉と功績に対して、地元松山市からは、平成19年度かがやき松山大賞が贈られ、顕彰されたのである。 ご両親の喜びは如何ばかりであろう。悠君は、最高の親孝行者だ、と思う。 伺えば、彼は高校2年のとき、緑内障を患い、以来、右目の左半分と左目のほとんどの視野が失われているのだそうだ。 言葉にできない挫折を乗り越え、今に至る道のりの支えとなったのが、小学2年のときから続けてきた柔道だった、と彼はいう。 障がいというハンデを、スポーツによって乗り越えたのだ。 なるほどスポーツは、国籍も、老若男女も、年齢も、問わない。まさに、人間が作り出した、ユニバーサルな文化といえよう。 スポーツを通して障がいを乗り越え、夢と希望を実現する彼の生き方に感動するとともに、政治の力で、障がい者スポーツの普及と振興をリードしなければならない、と痛感した。 世界を雄飛する悠君の知見によると。 欧米では、障がい者スポーツのトップアスリートたちは、国家プロジェクト並みの待遇と育成環境が与えられているのだそうだ。 それに比して日本の現実は、というところを、ご両親からあらためてお伺いしたのだが、事実の持つ説得力に、山本ひろし参議院議員とともに真剣に受け止めさせて頂いた。 さあ、ここからが私たちの仕事である。 寒さ厳しい夕暮れに、いつまでも見送ってくださる広瀬さんご家族に対して。ネットワーク政党・公明党として。 国と県と市のそれぞれの立場において、また一体となって、障がい者スポーツの振興に取り組むことを、心に深く、決意した。 それにしても帰り際、悠君がんばれ!と握手した彼の手は、さすが100キロ級チャンピオン。実に、痛ゴツかったのである。 ��写真は、左から私、広瀬悠君、山本ひろし参議院議員、雲峰松山市議会議員。)
県外視察2日目の今日も、島根県。 桜江町の、農業生産法人(有)桜江町桑茶生産組合様と、邑南町(おおなんちょう)の、香木の森公園の2ヶ所を視察した。 桜江町は、もともと養蚕で栄えた町であった。それが1996年に養蚕業売上0円となり、地元産業として消滅したのである。 若者は、町を出た。残ったのは、広大な桑畑と高齢者。 そのどん底から、ドラマは始まった。残された者、また、この町を残すべき者として、これからどうやって食べていくか、皆で考えた。 結論は、桑、の活用であった。 なぜ桑は、この町に、何百年にもわたって、存在し続けたのか。それは、様々な角度から検証して、この地が桑の生育に最適だからであった。 町を流れる暴れ川、江川の氾濫にも屈せず、5年放っておいても成長を続ける桑の生命力。それを、健康食品ビジネス化することに成功したのである。 その努力は、2006年9月、国の「立ち上がる農山漁村」有識者会議にて、農林水産業を核とした地域の成功例として選出され、この町の進化の1つの通過点として報われたのである。��ご参照URL⇒ http://www.kuwakuwa.tv/column/2006_10.html ) 次の邑南町・香木の森公園では、文字通りというしかない、吹雪の中、そして大変お忙しい中を、石橋町長様ご本人自らのご同行とレクチャを賜った。 この町も、過去、急激な人口減少と高齢化の危機に瀕したのであるが、同公園を観光資源とした取組みにより、今、着実に元気を取り戻しつつあるのであった。 そのハーブを活用した各種施設もさることながら、私は「園芸福祉研修」という取組みに目を瞠(みは)った。�� http://www.town.ohnan.lg.jp/SiteM/kik2info.nsf/799d23c85d2c4a4b49256afd004c1459/6a734dff9c69276a4925734f001a2c82?OpenDocument ) この取組みの主眼は、交流人口と定住人口の拡大にある。少子高齢化に真っ向勝負、直球ストレート戦略である。 ターゲットは、剛速球のど真ん中。園芸もしくは福祉に関心のある、全国の独身女性、のみである。 事前選考をパスした定員に対して、1年間、同町に住み、同公園にて働いて頂く。もちろん各種助成あり、報酬あり、である。 その1年間の中で、育苗の基礎から管理・販売、園芸の福祉活用等を学んで頂くのである。 人間、1年もそこに暮らせば、愛着もわくし、人間関係も自ずと広がるものだ。結局、定員の内の何名かは、研修終了後、同町に移住されるのである。 同研修制度導入から現在まで14年。この間、全国各地から101人を受け入れ、23人がこの町に定住した。 その内、16人がこの町で結婚し、25名の子どもたちが生まれた。48名の、人口増である。 そればかりではない。 研修終了後、各地に戻ったOBたちの口コミによって同町の魅力は流布され、OBたちはまた、観光客となってこの町のリピーターになるのである。 各種の施策が相乗効果となって、香木の森公園の入場者数は、開設当時の年間1万人から、現在は20万人超へと拡大。 その努力は、日本クリエイション大賞2006地域活性化賞受賞により、結実した。 同公園にて、ザクッ、ザクッと、深いぬかるみのような雪を踏みしめながら。 人間の知恵には行きづまりがないな、おらが町に対する愛と苦悩の果てに、必ず光明は見出せる、ということを確信した。 吹雪の中国山脈を越え、松山観光港に無事到着し、ほっとしながら。 島根県での2日間の視察を、わが愛媛の地域活性化につなげること。それが、特別委員会に求められる成果であり、私の重要な仕事なのだと、あらためて決意した。 足元の、愛媛の陸地が、愛おしく思えた。 ��写真は、バケツをひっくり返したような雪の、香木の森公園。)
今日は、私が所属する地域活性化特別委員会の県外視察、の初日。視察先は、島根県である。 ここ数日の寒波はこの日も厳しく、震えながらの早朝、13名の議員団・事務局メンバーで松山観光港から、一路、浜田市へと向かった。 午後、浜田市役所に到着。 牛尾議長様他ご一同様から熱烈歓迎を頂いた後、約1時間、同市水産物のブランド化戦略についてお話を伺った。 簡潔にまとめると。 浜田魚港で水揚げされる水産物のうち、特に競争力の高い、アジ・のどぐろ・カレイの3種類を、「どんちっち三魚」としてブランド育成することで、水産業全体の収入拡大を図る、というものだ。��ご参照URL⇒ http://www.city.hamada.shimane.jp/kurashi/nousui/suisan_don.html ) 2002年から取り組みを開始し、現在6年が経過したわけだが、手応えは上々という。それまで低迷していた魚価が、めざましく上昇を続けているのだ。 アジを例にとると、ブランド化以前の平均単価で157円/kgだったのが、昨年は265円/kg。 どんちっちアジ取扱い後、以前の浜田産アジ時代の、約1.7倍の高級魚になったのである。基本的に同じ水揚げ品質にもかかわらず、だ。 その高付加価値化のポイントは、脂質の含有量、いわゆる、脂の乗り具合にあった。 1匹1匹の脂質含有量を検体機器によって測定し、おいしさを科学的に証明する商品化に成功した、といえよう。 特に、脂志向の強い関東で、高脂質でバラツキの少ない、どんちっちアジの人気は、他産地のアジに比べ、数倍の高値をつけるほどだ。 どんちっちアジの鮮魚出荷実績を、3年前と比べると。 平均単価は596円/kgで、約2倍に、販売総額は約2億円で、約2割増に、なった。 のどぐろ・カレイも同様の成果を示し、その他の浜田市水産加工物にも波及効果を与え、同ブランド化戦略は順調に成果を上げているといえる。 また、戦略の進展により生じた新たな課題は、今後、さらなる生産・販売手法のイノベーションにより昇華させていくということだ。 事実ほど強い希望はない。愛媛に当てはめた時、東予であれ、南予であれ、各地の様々な可能性が考えられるのである。 その後、㈱島水様の水産加工施設と、しまねお魚センターを視察して初日は終了となったが、その日の夕食は、ある意味、試食であった。 どんちっち3魚を頂いたのであるが、旨い!のひとこと。 特に、のどぐろは、まさに、大トロ。小泉武夫教授風にいうなら、口の中で、ピュルリピュルリと旨み成分が溶けだしてくる、のである。 春から夏が旬といわれる、そのピーク時のおいしさは如何ばかりかと想像しながら。特別委員会のテーマである地域活性化を、わが愛媛でどのように実現していくか、を考える。 浜田市の取り組みに、大いに学びとヒントを得た初日となった。視察2日目となる、明日の触発もまた、今からワクワクなのである。 ��写真イラストは、どんちっちブランドキャラクター。キャラクターが手にする魚は左から、アジ、カレイ、のどぐろ。)
今日は、不肖・私の誕生日。早生まれのため、遅ればせながら、44歳となった。 当たり前だが、この年になると、プレゼントも、ケーキも、ないわけで。もはや、誕生日は特別な日ではなく、淡々と受けとめる365分の1日である。 と、いつもと同じように、さりげない朝。自宅から公務へと向かう。 午前は、各部局からわが会派に対して説明事項の来訪が相次いだ。午後は、来年度予算要望の第1回会派打合せをみっちりと行ない、また、新たな県民相談を種々承った。 そうして、1日はあっという間に過ぎ、帰宅後。 書斎、といっても手狭な一室で、私は、明日からの県外視察の下調べ、党務連絡などに粛々と励んでいた。 しばらくして、ドカドカと子どもたちの足音が近づいてきた。ドアが開くなり、こっちへ来て、という。 何、なに?と思って、リビングルームにいくと。2人そろって、ハッピーバースデー トゥー ユー ♪である。 ハハァ~ン。で、合唱が終わると。 お誕生日おめでとう、のかけ声とともに、2人から私に、ラブレター授与式が行なわれたのである。謹んでお受けいたします、なのである。 予期せぬ子どもたちの計らいに、私は、すっかりやられてしまった。こんなことされると、感激するではないか。 ラブレターの中身はというと、8歳の息子からは、私へのメッセージだった。 そして、もうすぐ4歳になる娘からは。 家族の似顔絵と、たくさんの小さなハート型の切り抜きと、折紙作品と。キティちゃんのシールと、お菓子が、ぎゅうぎゅう詰めに入っていた。 愛情がいっぱい詰まった、ラブレター。私にとっては、何よりのプレゼントであった。 やっぱり、誕生日は、特別な日。それは、年に1度、大切な人との愛情を確認する日なのかもしれない。 子どもあっての自分、家族に支えられてこそがんばれる自分、というものをあらためて確認した1日となった。 44歳の初日に、しみじみと。家族に、ありがとう!を、思う。