家内の風邪が移ったか、体調芳しからず。夜、支持者の記念会合に参加しご挨拶させて頂く。 皆様のお元気なお姿に接し、安堵の思いが広がる。 ブログ、見てますよ。公明新聞、見ましたよ。ご活躍ですね。 ますます議員らしくなってきましたね。いつも、応援してますよ。 たくさんのご激励を頂き、ありがたくも恐縮しきりであった。 温かく長い目で、皆様に見守られ育ててもらっているのだ、ということを、心から実感し、感謝するひと時であった。 とともに、甘えてばかりはいられない、一人前を急がねば、との緊張感も同時に沸き起こるひと時であった。 ふと、先日読んだ月刊誌「潮」12月号が頭をよぎる。そこには、公明党の設立経緯が特集されていた。 いわゆる55年体制がスタートしたのは昭和30年だが、その年は又、公明党の前身が、初めて地方議会に進出した年でもある。 以来、52星霜。公明党は今、衆院31名・参院21名・地方議会3,051名を擁するまでに育てて頂いた。 その歴史の流れの中に、地方議会3,051名の中に、私は、立っているのだ。 その源流を生み出したものは何であったか、その流れを大河たらしめる必然と急所はどこにあるのか。 常に自問すべきは、私の義務である。 岩盤に爪を立てる思いで草創を築かれ、守り、拓いて来られた、万を越えるであろう多くの先輩議員の汗と、数千万を越えるであろう多くの支持者のご苦労と。 常に報恩を寄せるのは、私にとって、人間の条件である。 今日お会いしたたくさんの笑顔の支持者の皆様に、そうした思いが重なって見えた。自身の使命と責任の重さを、心に塗り固めるひと時であった。
チュン、チュン。かわいらしい、すずめのさえずりで目が覚める。 出張帰りの本日は、事務仕事を午前に終え、午後は企業を訪問する。 各社ともそれぞれに多忙な中を、笑顔でご対応頂き、本当にありがたい。近況を交換しながら、民間企業の厳しさと逞しさを、ともに感じさせられた。 夜は、出張不在中に葬儀が行われた支持者宅を、1軒1軒弔問に伺い、参列できなかったことのお詫びと、お悔やみを申し上げた。 亡くなられたある老婦人は、私の選挙のときに、元気なお姿で御粧しをして、杖をつきながらも揚々と、投票に向かったという。その後、体調を崩され、最後の1票であったと。 ある壮年の方は50代の若さで、持病の治療入院中の突然だったという。また、70代の壮年の方はガンではあったが、最後は眠るように安らかだったという。 ご遺族の、それぞれの悼みに心を重ねながら。悲しみを乗り越えて、新たな1歩を力強く踏み出されんことを、心よりご祈念させて頂いた。 誰人たりとも、生老病死を免れない人生にあって。有限、ということを思う。 それが普通、と感じているすべてのことは、実は限られているのだ。 そう思うとき、それは、有り難いことに違いない。そこに感謝が生まれるに違いない。 そして、生活者が普通に暮らせることの、有り難さの実現が、政治の使命なのだ。 弔問を通して。自身の限られた人生の中で、果たすべき使命というものを深く学ばせて頂いた。
本日は、東京都内で行われた「平成19年度愛媛みかんトップセールス」に参加した。 えひめ愛フード推進機構主催による、いわゆる、愛媛みかんのサンプリングキャンペーンである。 今が旬、これからが最需要期の愛媛みかんを、大消費地である東京で、知事自らPRを行うから、トップセールス。 私も、県議として又、県議会果樹農業振興議員連盟の1人として、愛媛みかん大使とともに、随行をさせて頂いたわけである。 さて、本日、サンプリングを行ったのは、銀座と新宿の2ヶ所。 場所は、西銀座デパート、新宿髙島屋の2Fエントランス、B1青果売場特設コーナー、の3ヶ所であった。 ちなみに、西銀座デパートでは、山本参議院議員が駆けつけられ、お忙しい中を、ともにサンプリングのお手伝いを頂き、感謝感謝である。 そして、私も。 “おいしい、おいしい、愛媛みかんです。旬のおいしさを、どうぞお召し上がりください。” 1セールスマンとして、声を限りにお手渡しをさせて頂いたが、3ヶ所とも、その人だかりといったら、ないのである。 新宿髙島屋では、行列が彼方まででき、先着500名分が数分で終了。またたくま、というのはこのことである。 地元県議としては、今日ご賞味頂いた方々から口コミが広まり、ここはぜひとも、他県ではない、愛媛みかんがたくさん売れることを、心から祈りたい。 そして、みかんの生産も販売も日本一奪回、という明るいニュースを、心待ちに待ちたい、と思う。 15:00すぎに全行程を終え、心地よい疲労に包まれながら。慌ただしい1泊2日の公務を無事務め、爆睡の内に、松山帰着となった。 PSお導き頂いた清家議連会長・寺井副会長・石川県議をはじめ、運営頂きましたすべての関係各位に心より御礼申し上げます。 ��写真左から:愛媛みかん大使との記念撮影、山本議員とのサンプリング風景)
秋晴れの中、公務と表敬を兼ね、上京する。実に、約1年ぶりの東京である。 思えば、統一地方選出馬にあたり、勤めていた会社への退職挨拶に伺って以来だ。 激動にして、あっという間の1年を振り返りながらも、羽田空港に到着すると、回想から現実に引き戻された。 この街の喧騒ぶりは、相変わらずであった。 巨大なエネルギーのカオスに飲み込まれるようにして、私が向かったのは、生まれて初めての、国会議事堂である。 山本ひろし参議院議員への表敬と陳情を兼ねてだが、そこへ足を踏み入れるには、ほんの少しだが勇気が必要だった。 入ってみると、驚いた。 全国から陳情の団体が、まるで押し寄せるかのように、大混雑。まさしく地方の、叫びにも似た、厳しい現実を見る思いがした。 また、折からの大連立騒動で、議員とメディアの出入りがひっきりなしだ。私が踏み入れた第1歩は、そんな状況の中であった。 山本議員秘書の梅津氏のご案内で、まずは、国会内を見学した。 奇しくも、今から71年前、昭和11年の今日、この議事堂は完成したという。その由緒に思いを馳せた。 ふと、中央広間に鎮座する、板垣退助の銅像に、足が止まる。言わずもがな、自由民権の祖である彼もまた、四国の大先輩であった。 約1時間にわたる見学は、感嘆の連続となった。 引き続き、山本議員の部屋を訪れる。 伺っていた通り、与作の、439号室であった。部屋は思ったより狭く、つつましやかで、やや意外な感がした。 ちょうど山本議員の奥様が来られており、温かな歓迎を頂き感激する。そして、調査会を終えて戻られた山本議員と約2週間ぶりに再会。 近況とともに、厚生労働委員会での一般質問に盛り込んで頂く予定の、離島のこと、社会的引きこもりのこと、障害者就労のことなどをお伺いする。 要望を伺った方々が、どれほど心強く、お喜びになるか。早速、報告を、と思った矢先、情報が飛び込む。 委員会は明日なのだが、件の大連立騒動でスケジュールが混乱しており、一般質問は、延期もしくは中止になる可能性が大らしい。 いずれにしても必ず、との山本議員の真心をありがたく感じながらも、今回の騒動を、恨めしく思った。 そして、あっという間に、約2時間。 来客が後を絶たない山本議員と、丁寧なるご対応を頂いた奥様・梅津秘書に、恐縮と感謝を述べ、次の表敬先へと向かった。 政治の権謀術数と国民の要望がるつぼと化す、この巨大な建物。大事なことは、国民を感じる心であってほしい、と祈りながら。 初訪問の国会議事堂を背に、愛媛の、方々の顔を思い浮かべた。 ��写真は左から:参議院登院ボタン、山本議員の439号室、談話風景、439号室から見た外の風景)
企業会計決算特別委員会、2日目。今日は、途中まで傍聴参加し、その後、県民相談の来客対応にあたる。 そして、部局打合せ種々、企業・支持者への報告連絡種々、と動いている内に、すっかり日は暮れ、帰宅後は、主夫仕事となる。 一昨日から風邪でダウン、の家内に代わって3日目。夜のまかないも少しは慣れて、今日のメニューは、水炊きだ。 気合を入れて、まずは、ごはんからスタート。シャカシャカと米を研ぎながら、これって何年ぶりだろう、と思う。 そして、具材は、ありったけの冷蔵庫野菜をカットして、剥いて。肉は豚バラ、魚はタラを用意した。 鍋に出し昆布を入れて、しばらく寝かせた後、軽くひと煮込み。具材を入れるのは、子どもたちの係。 ポン酢にもみじおろしをポチョンッ、と入れて、七味をササッ。テーブルへの配膳も、子どもたちの係。 さあ、ごはんもふっくら炊き上がった。お茶碗によそって、ハイ、お待たせー。 元気のよい、いただきます、とともに、これって一家だんらん?とニンマリ。 ケガの功名というか、なんというか。子どもたちも、今日の夕食を楽しんでくれたようだ。 そして、あっという間に、完食。となれば、今度は、得意の洗い物。 昔、食堂でアルバイトしていた杵柄が、今、蘇る。食器もお皿もキレイになって、所定の位置に、ハイ、おかえりなさい。 そんなこんなで夕食の次は、お風呂なのだが、さて。 いつも母親がしていることを父親がする、というのは、子どもたちにも興味津々で、生きた学習になるようだ。 つまり、支えることの大切さ、である。 日頃、あれだけ親の言うことを聞かない子どもたちなのに、夕食1つにしても、自然に、積極的に、しかも競い合うかのように、お手伝いをしてくれるのである。 そして、そのことの気持ちよさを、感じてくれたようで。手のかかる子どもたちだが、ほんのちょっと頼もしく思えた。 1日の終わりに、ほんわかと疲れを感じながら。父親としてのワークライフバランスも大事だな、とつくづく思った。 ��写真は、作るのに夢中で中身を撮り忘れてしまった、鍋。)