10:00より、地域活性化対策特別委員会が開催される。本日の議題は、「南予地域の活性化について」であった。 まず、今年度から実施されている施策や事業の取組状況について、各部局からの説明があり、それに対する質疑が行われた。 知事の肝煎りということもあろう、実に、多岐にわたる配慮が行き届いている、というのが、私が最初に得た所感である。 県は、同地域活性化のために、全部で65の事業について、金額にして約136億円という、手厚い、又は非常に充実した支援を行っていることがわかった。 早速、委員からは、南予突出ではなく東中予とのバランスに配慮を、という意見も出たが、その気持ちは実によく理解できても、今日の議題とはまた別の議論であろう。 問題は。 南予活性化諸施策・事業が、所期の目的に対する投資効果、あるいは期待成果として、どのように総括されるべきか、ということであろう。 私は、人材育成に対する支援の考え方とあり方について、質問した。 地域の活性化をどのように定義するか、と問われると、私は常々、地域固有の強みを生かした新たなビジネス、又は市場の創出、と回答しているし、確信している。 そのあまりにも有名な成功事例として、徳島県上勝町の葉っぱビジネスと、高知県馬路村のゆずドリンク通販ビジネスが、ある。 いずれも。 上勝町の葉っぱは、横石さんが現れなければ、今でも葉っぱのままだったろう。馬路村のゆずは、東谷さんと松崎さんがいなければ、とっくに消滅していただろう。 葉っぱも、ゆずも、それ自体、地域固有の価値である。 それを、片や会席料理の妻ものとして、片や馬路村という田舎そのものを売る道具として捉えたとき、まったく新たな、顧客すなわち市場の特定と、ビジネスの仮説ができた。 あとは、トライ&エラーの積み重ねという、不屈の信念に基づく実践によって、全国レベルの成功事例となったわけだが、そのカギは、どの角度から分析しても、「人」なのである。 そういうビジネスマインドを持った人材を、この地域にどのように輩出していくのか。どうすれば、南予に、第2・第3の横石さんたちを、輩出できるのか。 そうした人材育成こそ、南予に限らず、地域活性化に最も重要な要因であり、その触発から育成までの機会と環境を提供することこそが、行政が果たすべき最重要の役割ではないか、ということを申し上げた。 加えて、将来、南予を担うであろう、感受性豊かな若き世代に対して、成功事例を成し遂げた「人」と、その現場との、交流・視察の機会を与える、いわゆる、戦略派遣事業の新設を、要望として強く申し入れさせて頂いた。 各委員それぞれの視点に学びながら、有意義な時間は過ぎた。 閉会の一方で。地域活性化特別委員会の一員として、私の期待成果は何か、ということを考えている。 宿題は、終わらない。
久しぶりに、司馬遼太郎の世界に触れた。播磨灘物語、である。 時代は、戦国時代。主人公は、秀吉の名参謀、黒田官兵衛である。 彼こそは、政治家である。戦国の3人の英雄が光であれば、彼は添うがごとき影であった。 タフ・ネゴシエーターであり、名プロデューサーであり、優秀なマーケターであり、敏腕経営者であった彼がいなければ。 おそらく、戦国時代の風景は違ったものになっていたであろう。 彼は、人間の機微というものを、まるで顕微鏡で拡大するかの如く捉えることができた。そして、それに対する化学反応シュミレーションを、誰よりも想像することができた。 ゆえに、その力を最も必要とする権力者に、必然的に求められ、同時に恐れられた。 徳川幕府における、息子の長政の成功を持ち出すまでもなく、この時代を進退鮮やかに生き抜いた稀有なる人物であった。 強く想ったこと。 中世から近世という、時代のコペルニクス的転回を、最初から直感的に、そして合理的に理解できたのは、信長と官兵衛の2人ではなかったか。 そして。片や高転びに転ぶものと、近世という新たな時代を悠々と仰いだものに、両者は分かたれた。 今の時代は、どうだろう。と考えるとき、官兵衛は、優秀な政治家だと思うのである。 司馬遼太郎の点描する官兵衛とその時代に、束の間誘われ、今の政治家に必要な視点というものを、密着取材させて頂いた気がした。
10:00より、環境保健福祉委員会が開催される。部局からの報告とレクチャを中心に行われた。 ポイントは、2つ。 乳幼児医療費助成制度の見直し案について、県と市町との合意内容に関する報告が、1つ。 もう1つは、本県の少子化対策の取組状況についてのレクチャ、であった。 いずれも、少子化対策というテーマに括られるが、乳幼児医療費助成については、ささやかながら拡大、の方向性が見えた。 現行では、通院は3歳未満まで無料、入院は就学前まで無料となっているが、この通院に関して助成枠が拡がったのである。 つまり、3歳以上から就学前までについて、1ヶ月の自己負担上限額を2,000円とすることで、県と市町で合意したのである。 2,000円といえば、薬代を含め、ほぼ1~1.5回分の診察治療費に相当しそうだ。そうであれば、2回目以降は無料ということになり、育児にとっても家計にとっても明るい材料といえる。 施行は来年4月1日からの予定である。 また、既に、東温市・八幡浜市の2市は、独自に対象年齢を拡充しているが、四国中央市・新居浜市・西条市の3市が、来年から新たに拡充する見通しであることも明らかとなった。 次期議会で上程・採決される予定だが、ちなみに、今回の拡大財源額は県・市あわせて、約3億円である。この厳しい財政事情の中では、健闘に値する判断ではなかったか、と思う。 また、助成費用拡充の一方では、乳幼児を担当する小児科医の拡充という裏づけが必要だ。このための費用を捻出する意味でも、今回は、完全無料化への一里塚としての前進、と位置づけたい。 もう1つの、本県の少子化対策の取組状況については、個人的には少し消化不良であった。 国も同じことがいえると思うのだが、少子化対策という場合、最初に必要なのは、では、どれくらいの人口が適正か、について合意することではなかろうか、と思う。 そこには、人口バランスを含む、社会のグランドデザインをどうするかという哲学が問われる。 ちなみに、これには1つの答えというものはなく、国なら国、県なら県という、その社会を構成する構成員の選択の問題であろうと、私は考える。 社会の持続ということを考えると、少子化をよしとする理由は何もないが、子どもを産まない、産めない、産みにくいという約40年にわたる現実は、ソフト・ハードとも、単なるインセンティブだけではとても解決は困難であろう。 頂いた資料を何度も読み込みながら、もっと根本的な何か、の必要性を感じた。スイッチをオンにしたまま、その突破口を見出してまいりたい、と思う。
2日前から予感を感じていた体調不良が、今朝、ピークとなる。 たまらず、病院で診てもらった。半年ぶりだ。 点滴を打ってもらって、あとはひたすら床に伏した。が、電話が絶えない。 内容を伺い、適宜対応をさせて頂くが、あらためて公人の厳しさというものを実感した。 日頃から、健康には臆病なくらい用心を、ということであろう。肝に銘じながら、休ませて頂く。
10/3から県美術館にて開幕した「国立ロシア美術館展」も、いよいよ今日が最終日となった。 一昨日、来館者の数が実に、10万人を越えたという。 それほど多くの人を魅了してやまないロシアの至宝を、心に焼きつけるべく、小2の息子と鑑賞に訪れた。 開始時間早々にも関わらず、会場は観客でごった返していた。 一通りの鑑賞を終え、親子で語り合った。どれが一番、印象に残ったか、その理由は? 僕は、「月夜」。お月さまに海がキラキラ光って、本物のようだったから。 息子よ、これを描いたのは、イヴァン・アイヴァゾフスキーという海洋画の巨匠で、海を描かせたら、この人に勝てる人はいない、というくらいスゴイ人なんだ。 お父さんは、「教室の入口で」。この女の子、または男の子の後姿から伝わってくる、庶民の偉大さに圧倒されるから。 当時の農奴制と専制政治に虐げられる庶民の暮らしぶり、といっても小2には難しかろう。翻訳してのやりとりだったが、ふと、何で女の人ばっかりなん?と、息子から逆質問。 そういえば、女性を描いた作品がほとんどではある。 意表をつく子どもの目のつけどころには、ギブアップである。大きくなったらわかるから、と思わず誤魔化してしまった。 芸術の秋よろしく、少しばかりの子ども孝行ができたかと、会場を後にする。 女性が主役ともいうべき国立ロシア美術館展の残像から、帰宅後、買っておいた「女子の本懐」(小池百合子著/文春新書)を一気に読む。 小池氏といえば、たしか今から12年前の、1995年の参院選のときだったと思う。当時、新進党候補を支援していた私たちの前に、颯爽と、応援演説でやってきたのだ。 ドキッとするくらい美しく、ぬけるように弁舌鮮やかだったことを、今でも覚えている。まだ参議院議員になりたてだったと思うが、計算すると、今の私と同じ年齢であった。 比べるのも失礼だが、同じ年齢でもここまで能力が違うかと思わずにいられないし、女性であることを、属性に過ぎない、と言い切る彼女に、政治家としての底知れぬ凄みを感じる。 同書は、防衛大臣就任前後の日記風ドキュメンタリーが中心ではあるが、彼女がめざす、これからの政治のビジョンがわかりやすく描かれている。 そして、マックス・ウェーバーの言葉を借りて、彼女は最後を結ぶ。 「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力を込めてじわじわと穴をくり貫く作業である」 そして。私は一兵卒として、その作業を続ける、と。 立場も次元も異なるが、同意、全きを得た思いだ。すべての政治家から貪欲に学びたい私にとって、貴重な示唆を得た1冊であった。