久しぶりに、司馬遼太郎の世界に触れた。播磨灘物語、である。 時代は、戦国時代。主人公は、秀吉の名参謀、黒田官兵衛である。 彼こそは、政治家である。戦国の3人の英雄が光であれば、彼は添うがごとき影であった。 タフ・ネゴシエーターであり、名プロデューサーであり、優秀なマーケターであり、敏腕経営者であった彼がいなければ。 おそらく、戦国時代の風景は違ったものになっていたであろう。 彼は、人間の機微というものを、まるで顕微鏡で拡大するかの如く捉えることができた。そして、それに対する化学反応シュミレーションを、誰よりも想像することができた。 ゆえに、その力を最も必要とする権力者に、必然的に求められ、同時に恐れられた。 徳川幕府における、息子の長政の成功を持ち出すまでもなく、この時代を進退鮮やかに生き抜いた稀有なる人物であった。 強く想ったこと。 中世から近世という、時代のコペルニクス的転回を、最初から直感的に、そして合理的に理解できたのは、信長と官兵衛の2人ではなかったか。 そして。片や高転びに転ぶものと、近世という新たな時代を悠々と仰いだものに、両者は分かたれた。 今の時代は、どうだろう。と考えるとき、官兵衛は、優秀な政治家だと思うのである。 司馬遼太郎の点描する官兵衛とその時代に、束の間誘われ、今の政治家に必要な視点というものを、密着取材させて頂いた気がした。