今日も、支持者のもとへ。夜の座談会で、膝詰めの対話を行う。 ずしり、様々なご意見、ご要望を頂いた。終了後も、個別面談のカタチで小さな行列ができるほどに。 ささやかではあるが、連日の座談を重ねながら、強く思ったことがある。それは、こういう場を“しくみ化”できないだろうか、という着想である。 少人数、ということと、座談、というのが肝、だ。そこには、裃を脱いで、気兼ねの要らない、何でもあり、の空気が生まれるからだ。 そのとき初めて、生きた対話が可能となる。 生きた対話には、誤解を理解に、対立を共感に、孤立を連帯に、不信を信頼に、転換させる力と可能性が秘められている。 現今の難局を乗り切るためには、政治への信頼が必要不可欠だ。 その信頼を取り戻すためにも、こうした座談を、党派を超えて、国と地方の全議員が、挙げて行ったとしたら。 間違いなく、劇的に、日本は変わるであろう。 冷ややかに、それは自明という前に、まず自ら、行動に移したい。地道ではあるが、着実に。 そして、そこに、議員間での、人道の競争とも、価値の競争ともいうべき、いい意味での競争と、政治の期待成果の向上スパイラルが生まれることを信じたい。 今日の末尾に。明確な目標を掲げて真っ直ぐに挑戦する青年は、なんと素晴らしい。 彼らと彼女らのために。私の中の、人道競争に対する戦闘モードが沸騰してやまない、心に残る1日となった。 ��写真は、自宅から見える、くるりん)
午前、党務。午後、公明党愛媛県本部の議員総会に出席。 ちなみに、私は県本部で最もキャリアが短く、最も若い。ということは、まわりはすべて先輩なのである。 昨年まで民間企業に勤めていた感覚からすると、この経験は、新入社員以来で、今でも違和感、大だ。 が、もともと好奇心旺盛なアドマンなる性、細大漏らさず、先輩方の一挙手一投足から目が離せない。 感心することも又、大なのであった。 そんな日中を終え、夜は、支持者との座談会に参加させて頂く。 いつもながら、オアシスなひとときであった。今日は約20分ほどの近況報告の後、質問会という展開となり、赤裸々が、続出。 真剣に質問を伺い、誠実にお答えさせて頂く、まさに、真剣勝負。 その中で、わからないことに対して、“その件、よくわかってないので、お調べの上ご報告させて頂いていいですか?”と回答せざるを得ない場面があった。 期せずして、場内、大爆笑。恥ずかしいけれど新人は、正直が、一番なのかもしれない。 質問というより要望が、後から後から相次いで、実に多くの宿題を頂いた。明日もまた、忙しくなりそうだ。 1日を終えて。庶民の皆様との赤裸々な関係、そして虚心坦懐のひと時を、どれだけ持てるか。 生活課題の、机上ではない、実像の解決の糸口は、必ずそこにある、と、あらためて確信を深めた。 ��写真は、砥部町中央公民館で見つけた砥部焼の、鶴)
午後、企業6社を訪問する。日頃のご無沙汰を詫びつつも、各社とも温かくご面談頂く。 とある企業では、会長・社長自らご対応を頂き、お心こもるご教授を賜った。人生の風雪に耐えた、にじみ出るお人柄に、ひれ伏すような感慨を覚えた。 戦後、すべてがリセットされた荒野から、こういう大先輩のご苦労があって、日本の今がある。そういう感謝の思いとともに。 今の時代の困難を、今度は、私たちが拓いていかねばならない、という責任を痛切に感じた。すなわち、約800兆円という借金をどのように決着していくか、という困難である。 世界の先頭を行く、超少子高齢社会の日本にあって、この困難を解決しない限り、社会保障の問題も、様々な格差の問題も、根本的には解消できない、と思うのだ。 現実に、国も県も、答えを見出せていない。そうした現実の中で、思う。 戦後の、焼け野原は、どうだったろう。無数の、無名の、先輩たちは、どんな思いだったろう。 そう考えるとき、現実にへこたれてる場合ではない、と思うのだ。 大先輩方が岩盤に爪を立てる思いでやってのけた復興を、次元は違うが、私たちは何としてもやり遂げなければならないのである。 そうした強い意志を、目の前のベテラン経営者から受け継ぐ思いで、拝聴をさせて頂いた。 末席にせよ、県政という、愛媛県の経営に携わる1人として、こうした企業経営者の皆様との面談は、いつも、心と技術の両面から、貴重なヒントを頂ける。 地道に対話を重ねながら、県民に対する成果につなげてまいりたい、と思う。
19:00。日頃、お世話になっている皆様との座談会に出席。 懐かしいお顔とともに、たくさんの新しい笑顔に包まれ、私にとって十分すぎる、オアシスなひと時であった。 その中で、20分程度のお時間を頂き、お話をさせて頂いた。 県議会議員ってどんな仕事?県議会って、どんなところ? 誰しも思う、そんな素朴な話題から始まり、この間、取り組んできたこと、これから取り組もうとしていることを、正直に、ありのまま、語らせて頂いた。 2つ、思った。 1つは、こうした場を頂けることへの感謝、だ。政治は堅苦しい、難しい、敷居が高い、とよくいわれるが、これは、本来の逆、であろう。 政治は、生活の全方位をマターとするのであれば、生活者に一番、身近な存在でなければならない、と思うのである。 政治がパフォーマンスに流れ、そうした努力を怠ってきたとすれば。 今こそ、私たち議員は猛省の上に、猛烈に、こうした場を拡げていかなければならないであろう。 ゆえに、生活現場に飛び込み、膝を交えて、裃を脱いで、腹蔵なく対話を行う、こうした場が、極めて重要で、決定的に有意義なのだ、と再認識をさせて頂いた。 もう1つは、責任の重さ、である。生活者から共通して聞こえてくる悲鳴の最たるは、負担増の問題と、さまざまな格差問題。 なぜ、ということの説明と、一定のご理解を頂くことは、ある程度可能だ。問題は、じゃあ、どうする、に対して、国も県も、答えを見出しきれないという現実にある。 それをするのが、政治の仕事でしょ。 これが、生活者の本音であろう。そして、おそらく、国民全体の。 そのように、生活者の気持ちに寄り添ったとき、政治家の責任は、いや増して重い。新人であっても、若造であっても、いいわけにはならないことを、痛感した。 参加者を笑顔で見送りながら、たくさんの激励の言葉を頂きながら。初心を忘れず、原点を見失わず。 愚直に、自身の責任を果たしてまいりたい。夜の帳、肌寒い帰り道に、あらためて、心に誓った。
葬儀参列のため、新居浜市を訪れた。 新居浜ICを下りたとたん、いつもと空気が違う。それも、そのはず。 今がたけなわと、新居浜太鼓祭りの熱気が、町に満ちているのである。今年は新居浜市制70周年を記念して、例年にも増しての盛り上がりという。 勇壮な掛け声とともに練る、太鼓台とかき夫が眩しい。観衆として、じっくり堪能する時間がなかったのが残念だった。 一説によると。この地域での太鼓台の起源は、平安あるいは鎌倉時代まで遡るといわれる。 約1,000年にもわたり受け継がれてきた、その歴史と伝統は、おそらくこの地に暮らす方々の最大の誇りとして、お1人お1人のDNAに、完全に組み込まれているのだろう。 そのあたりがいかほどかは、ご当地選出の石川県議のブログに詳しい。��ご参照URL⇒ http://minoru14kawa.blog72.fc2.com/blog-date-200710.html ) さて、参列を終えて、松山に戻ると、いくつかの県民相談が待っていた。対応を終えた後は、盲学校関係者と笹岡県議の打合せ会合に同行参加させて頂く。 とても勉強になった。実際に見て知ることを、知見というが、まさに新たな知見を得た有意義なひと時であった。 その後、日頃お世話になっている方々と、多事争論。膝を交えて深夜まで。爽やかに、疲れた。 思えば、統一地方選の公認発表から、1年が経ち。 わが人生史上、最も激動の、この1年は、新居浜市民の太鼓台DNAにも負けない、私自身のDNAとして、しっかりと熱く刻み込まれた365日、であったといえる。 それは、支持者の皆様との誓い、というDNAだ。原点を忘れず、熱く、精進してまいりたい。 ��写真は、新居浜で見かけた勇壮な太鼓台)