終日、政務。 午後、「元気えひめの会」に出席。 席上、知事から年内退任の意向が述べられ、明日開幕の9月議会にて詳細が示さるとのこと。 県政上、エポックを画するひとつの時代が終わろうとする感慨と、 これから始まる新たな時代に対する期待と微妙な不安が、会場内を包むように交錯していた。 今後、様々な形で加戸県政の総括がなされると思うが、 私が、議員として初めて目の当たりにしたのが加戸知事であり、その意味で知事は私にとって永遠のメルクマール、といえよう。 この間のご尽力に対して深甚の敬意を表するとともに、有終の任期の全うを心よりお祈り申し上げたい、と思う。
早朝。 公明党愛媛県本部の議員有志一同にて、高松市の大島青松園を、訪問。 私にとっては約1年ぶり、だ。 入所者の磯野さんは西条市のご出身で、奇しくも、この日が79回目の誕生日。 ハッピーバースデーの合唱で交歓の後、初めて訪れた私たちのメンバーのために、 69年前、この島への強制隔離から始まるご自身の半生と、共に過ごし、旅立たれた同志の思い出を、語って頂いた。 初訪問のメンバーの目から大粒の涙が、こぼれる。 何度お伺いしても。 許し難く取り返しのつかない、人権に対するこの不条理を、私たちは忘れてはならないし、繰り返してもならない。 磯野さんの思いを五体に刻み、人権の党・公明党として。 メンバー一同、人権啓発活動に対する決意を確かめ合うひと時となった。
午前、高松市にて種々のご挨拶訪問。 午後は党務、夜は意見交換会等。
終日、県民相談で市内巡回。 もう一歩踏み込む努力が人を分けるし、その努力をいつも惜しむまい、と思う。 夜、大学の先輩と、久しぶりの談義。教育をテーマに、白熱。一致。決意。
午前、議会にて部局折衝。 互いの信頼を軸に進める仕事ほど、有難いものはなく。その意味で本日も感謝、の2文字である。 午後、事務所にて原稿作成。 その原稿とは。 本年、南加愛媛県人会様が創立100周年の佳節を迎え、私も慶祝訪問させて頂いたことは既に記述の通りだが、 年内を目途に愛媛県海外協会様が、100周年記念誌を出版されることとなり、 公的参加者にその寄稿を依頼されたもの、である。 私、そんなん初めて、 なのであって、それは、 “事務局長、原稿の文体は、ですます調でしょうか、それとも、だ・である調でしょうか?” の、電話確認から始めなければならない有様だった。が、今ある精一杯の知見を寄せ集めて、何とか完成。 何度か、読み返しながら。 確かに、その時、感じた通りを綴らせて頂いたし、綴った通りに精進してまいりたい、と思うばかりだ。 そんな思いで事務局に原稿をお送りした後、大急ぎで夜の党務へ直行、となる。 ��原稿は以下の通りです。宜しければご高覧くださいませ。) 南加愛媛県人会創立100周年記念公的訪問団に参加して愛媛県議会議員 木村 誉 まず初めに、今回の慶祝行事に際しまして公的訪問団の一員として参加させて頂きましたことを心から感謝いたしますと共に、県人会先人諸氏の100年にわたるそのご労苦とご功績にあらためて衷心より敬意を表したいと思います。 今回の訪問は、私にとりまして2つの意味において貴重な経験となりました。 1つは、人間にとって“絆”というものがいかに重要であるかについての「再」発見であり、もう1つはコスモポリタン、つまり世界市民という概念が、机上論ではなくもはや事実として時代に息づいていることの「新」発見であります。 訪問初日、交流会の冒頭。松岡県人会長様の、感動で声にならないご挨拶に、私は涙を禁じえませんでした。おそらく多くの方もそうであったに違いありません。冷静に考えれば、殆どの方が今日初めてお会いした間柄、にも関わらず、です。 そんな私たちを、一瞬にして通じ合う関係と成したものこそ、ふるさとの“絆”に他ならない、と今あらためて確信するのであります。 滞在中、私たちは、マルカイ・コーポレーション様、ヤマサ蒲鉾様をご訪問し、あるいは北針記念碑等を訪ねながら、県人会の皆様が歩んでこられた100年のご労苦について具にお伺いしたのであります。 ある時は強制帰国させられ、強制収容され、又、ある時は白人社会から差別され排斥されながらも、不撓不屈で今日を迎えることができたのは偏に、故郷愛媛、祖国日本という、ふるさとの“絆”があったればこそ、と口々に熱く語られるお姿は、今も私の瞼から離れません。 人間は、どんなに強い人であっても孤立すると弱く、同時に、どんな困難があっても乗り越える強さを秘めた存在であります。その人間としての強さを薫発させるものこそ、人と人を結ぶ“絆”であることを、私は県人会100年の歴史に学ばせて頂きました。ふるさととは斯くも有難く、時空を超えて私たちを結ぶ“絆”なのだ、ということを。 翻って今、日本は“絆”の崩壊という危機を迎えております。親と子、人と人、人と地域等、社会のそれぞれに結ばれていたはずの“絆”がまさに失われつつあり、それゆえに生じる悲しい出来事が連日絶えない状況にある、といって過言ではありません。 今回の慶祝訪問を通して「再」発見した“絆”の重要性は、今の日本にとって最も見直されるべき核心であり正鵠を射た示唆に他ならず、自身の立場に照らし、今回の貴重な知見を活かしてしっかりと、ふるさと愛媛の発展に貢献すべく精進してまいる所存でございます。 そして今、世界市民の時代へ――。それは閃くように体感した、自身における「新」発見でありました。 記念式典の中で、松岡県人会長様から“100年の月日を経て今、南加愛媛県人会の多くが、言語も含めて生まれも育ちもアメリカといった3世・4世の時代を迎え、県人会をどのように次世代へ継承するかが最大の課題”とのお話がありましたが、正に会長が抱えられる不安と危機感が、ありありと伝わってまいりました。 それは、同じ県人会を率いるリーダーとして、明らかに100年前の初代会長とは異なる課題であり責任感でありましょう。と同時に、100年後の会長もきっと、今とは別の課題を担われているに相違なく、その時の7世・8世の県人末裔たちは、愛媛のDNAを厳と受け継ぎつつも“世界市民”という地平に立っている、そんな姿を私は想起したのであります。 そう考えますと、これからの県人会を担われる3世・4世の皆様は、100年前と100年後を結ぶかけがえのない存在として既に“世界市民”であり、本県と南加愛媛県人会がその“絆”を失わない限り私は、どこから見ても日本人であり且つアメリカ人でもある彼らの姿に、相互の未来における無限の可能性を感じずにはいられないのであります。 今、大人気のテレビドラマで坂本龍馬が、“もう、上士や下士や、薩摩や長州やゆうちょられんきに”と、当時の日本人の概念領域を「幕藩」から「世界」へと拡げ、変えていったように、これから100年の未来に対して私たちが応えるべき時代の要請は、県人会の皆様に見る世界市民としての新たな“絆”の創出に他ならない、と強く感じるのであります。そして、それはふるさと愛媛を想う気持ちと何ら相反せず、初めて「日本人」となった龍馬が、死ぬまでふるさとを愛する「土佐人」であったことと同義なのではないでしょうか。 確かな未来を見通しながら、いつまでも愛すべきふるさと愛媛と日本が輝いていけるように、私も政治に携わる1人として、微力ながら全力で取り組んでまいる所存です。 最後になりますが、この度の慶祝訪問並びに記念出版に際しまして多大なご尽力を頂きました愛媛県海外協会様をはじめ全ての関係各位に対しまして深く謝意を表し、心より厚く御礼を申し上げます。